2018年08月31日

【地域づくりと101人】~連載終了のお知らせ~

【地域づくりと101人】連載終了について

当センターのブログにて大人気スペシャルコーナー【地域づくりと101人】を連載して参りましたが、8月31日を持って終了することになりました。

101人には遠く及ばず終えることになり非常に残念でありますが、この続きは宮崎県WEBサイトみやざきの101人をご観覧下さい。

【地域づくりと101人】以外の情報はこれまでと変わらず、みやchanブログにて発信して参りますので今後ともお付き合いよろしくお願いします。これまでありがとうございました!


みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/index.html

  


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2018年08月29日

【地域づくりと宮崎101人】⑮阿萬 豊蔵(あまん とよぞう)

こんにちは!
みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!

⑮阿萬 豊蔵(あまん とよぞう)1810~1876



●飢餓に苦しむ人援助
 豊蔵は現清武町に生まれた。年少の時から明敏で勉学を好んだ。安井滄洲、息軒父子に師事し、その優れた資質を認められた。1832(天保3)年、23歳の時、江戸に上り昌平黌(しょうへいこう)に入った。特に儒学者・古賀外字庵(どうあん)について経学を修め、4年後に帰国した。帰国後は清武明教堂教授となり、後進の教育に尽くした。
 嘉永年間(1848~1853)、清武郷中野地頭所の参政となり、地域の行政を受け持った。豊蔵は、木原、熊野、海江田の3村を担当したが、このころこの3村は貧しくて飢餓に苦しみ、租税も納まらなかった。
 豊蔵はそのままにしておくことができず、村人に自分の乗馬や、自分の所有する山の樹木を伐採させて金に換えさせ、その金で租税を納めさせた。そしてその残金で村人の生計を援助した。豊蔵の温厚篤実な人柄と誠実な施政は、村人に慕われ尊敬された。
 そのころ、天領吉村の農民が、大淀川左岸の飫肥藩領瀬頭の土地に入り、勝手に溝を掘り畑の作物を荒らしたので、境界争いとなった。
 豊蔵は外字村庄屋と交渉したが進展しないので、現日向市細島にあった富高手代所、さらに日田代官所に交渉を進め、藩主の命を受けて江戸幕府に直接訴えて、ついに飫肥藩の勝訴とした。1852(嘉永5)年のことであった。
 その後、藩校振徳堂の教授となった。1869(明治2)年、藩の学制改革に尽力したが、翌年引退して今泉に住んだ。
 1876(同9)年、恩師・息軒と同じ年に病没した。(甲斐 亮典)
メモ
 豊蔵が残した日記、1843(天保14)年以降の日記18冊が、県立図書館に保存されいる。豊蔵が携わった明教堂の教育の状況や当時の武士の生活がよく分かる史料である。
 日記のほかに、豊蔵がかかわった天領外字村との境界論争の史料、藩政に関係した記録、西南戦争で戦死した子息・忠規の日記、豊蔵の書簡なども含め「阿萬文書」として保存されている。豊蔵は「鉄崖」と号し、漢詩文や文人画を能くした。師の息軒は「篤夫(豊蔵)をして力を文章にきわめしめば、則ち天下恐らくは及ぶ者なからん」と評している。
 また七弦琴を好み、暇をみては巧みに弾じ、菊の花を愛してよく観菊会を楽しんだという。

出典:みやざきの101人
  


Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 09:00Comments(0)宮崎の偉人

2018年08月21日

【地域づくりと宮崎101人】⑬平部 嶠南(ひらべ きょうなん)

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⑬平部 嶠南(ひらべ きょうなん)1815~1890

●維新後の飫肥藩指導
 外字南は現在の清武町に生まれた。初め良介、後に俊良といった。少年のころ、安井滄洲(そうしゅう)・息軒父子に出会ってその教えを受けた。外字南の向学心は、この時に深く根ざしたものと思われる。1833(天保4)年、師・息軒について江戸に登り、昌平黌(しょうへいこう)の儒学者・古賀庵(どうあん)に学んだ。江戸滞在中に多くの人材に出会って啓発され、学問にも社会にも目を開いた。
 翌年帰国して藩校振徳堂の教壇に立った。幕末の1867(慶応3)年、飫肥藩の家老となり、明治維新の変革期を乗り越え、維新直後には飫肥藩大参事となって政務を指導した。
 1874(明治7)年、県から地誌編集を委嘱され、8年の歳月をかけて『日向地誌』を完成した。原著は和とじ56巻、1929(昭和4)年に刊行された活字本では、1,620ページの大著である。本県の地理、歴史を研究する人々にとって、今も不可欠の書である。
 この他、『日向纂記(さんき)・六鄰荘(ろくりんそう)日誌』などの著述は、本県の歴史研究にとって貴重な史料となっている。外字南は、息軒を終生の師として尊敬した。1876(明治9)年9月、息軒の訃報(ふほう)に接した外字南は、「誼(よしみ)は師弟であったが、恩は父子同然であった」…「職務で上京する度に、先生の宅にひんぱんに出入りして、飽くまでその論説を聞くことが出来た。今日以後、誰に教え受けたらよいのか」と六鄰荘日誌に記している。まさに天を仰いで師・息軒の逝去を悲しみかつ惜しんだ。3人の息子も次々に若死して、跡継ぎとして期待した孫・俊彦をも西南戦争で失った。しかし大著述は完成した。
(甲斐 亮典)

◎「日向地誌」
 1884(明治17)年に完成した。当時の県内5郡376カ町村について、その沿革、管轄、地勢、地味、戸数、人数、牛馬、山、川、社寺、陵墓、古跡、学校、物産などことごとく記録されている。
 本県に関する百科事典とも言えるものである。1929(昭和4)年に初版本が発刊されたが、希少な本となってしまい「幻の大著」と云われていたが、1977(昭和52)年、待望の復刻版が出された。原本は、県立図書館に保存されている。

出典みやざきの101人



旧藩校振徳堂(〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目2−1)
宮崎県立図書館(〒880-0031 宮崎県宮崎市船塚3丁目210−1)  


Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 13:01Comments(0)宮崎の偉人

2018年08月16日

【地域づくりと宮崎101人】⑫関月尼(かんげつに)

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関月尼(かんげつに)1823~1885


●恋に生き諸芸伝える
 ふみだにもあやうかせばをもひのみ
  深谷川のくち丸木ばし

 関月尼の歌である。手紙をもってしても確信がもてないので、私はもの思いにふけるのみ、それはちょうど朽ちた丸木橋のようなものと詠んだのであろう。恋多き尼僧の心の内を吐き出した1首。
 尼僧の本名は小山せき。延岡市千光寺の過去帳には小山関子とある。出生は大坂、天保の飢饉(ききん)の際ほう起した大塩平八郎の娘と伝えられる。
 母は遠島、生活も苦しく、せきは若くして出家したというが、真相は謎(なぞ)につつまれている。たまたま京都の寺で修行中の僧・恵等(えとう)と相知り、2人は情熱断ち難い関係に陥った。
 こうなると“恋の道ゆき”、2人は長崎を経て延岡へ。恵等40歳に近く、関月20歳をすぎた年齢であった。はじめ別々に暮らしたが、島野浦神聚寺(じんじゅじ)に入り同せい、土地の人々に愛された。尼僧は“おせきさん”と呼ばれ、生花・茶道・三味線・琴などを教えた。
 ところが、恵等が島の娘“お房”と仲良くなり、関月尼は島を離れ延岡の東海(とうみ)の常楽院に入った。運命の皮肉であろうか、ここで船問屋の伝五郎と再婚。この暮らしも5、6年しか続かず、やがて延岡誓敬寺の食客となった。柴田家の3畳間を借り、和歌、鼓など諸芸を教えた。この間、2度ほど上京、歌道の師太田垣蓬月(おおたがきれんげつ)に会いに行ったという。
 やがて延岡の祝子(ほうり)の千光幸恵照の妻となり、ここで63歳の波乱にみちた生涯を閉じた。(山口 保明)

◎西南の役と関月尼
 1877(明治10)年、西南の役が起こり、多くの青年が戦いに散った。10代から20歳代の未亡人ができ、のっぴきならぬ社会問題となった。鹿児島県は未亡人の再教育のために、関月尼に自羽の矢をたてた。
 これに応えた関月尼は、翌年の春、束髪を落とし黒染めの衣に身を包み、馬上の人となった。当時19歳の甲斐もん、17歳の柴田きく、白石ときの3人は延岡の伊形(いがた)の松並木に師を待ちうけ、しばしの別れを惜しんだという。
 鹿児島で技芸教育を施すこと2年、千光寺に戻った関月尼は疲れが出たのか、臥しがちであった。それでも経典などを書写し、曹洞宗台雲寺(だいうんじ)末40カ寺に献納、気分のよい日は教え子たちと談笑した。
 関月尼の歩みが残した民衆への啓蒙(けいもう)活動は、語り草となって伝わっている。
 きのふありて今日はなき身と
  消えゆくも 残るも同じ道芝の露

大岐ちゃんメモ
関月尼の墓→延岡市千光寺にあります。  


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2018年08月10日

【地域づくりと宮崎101人】⑪三好 退蔵(みよし たいぞう)

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⑪三好 退蔵(みよし たいぞう)1845~1908


●明治の法曹界の代表格
 高鍋藩士の家に生まれ、8歳で明倫堂教授日高耳水に学んだ。その後上京して安井息軒の門下生となり、明治維新に際しては藩主を補佐し、1869(明治2)年には政府の行政官となった。
翌年には高鍋藩の少参事となり、廃藩置県後は秋月種樹の援助で1,000ドルをもってロンドンに遊学した。退蔵の国際的な感覚と判断力は、ヨーロッパ遊学のなかで身につけたものである。帰国後司法省の判事となり、1877(同10)年の西南戦争では大審院の判事として状況を視察した。

 その後、横浜裁判所長や司法大書記官を経て1882(同15)年には伊藤博文の憲法調査のためヨーロッパに随行。司法制度調査にあたること3年、帰国後は司法次官となる。3度目のヨーロッパ遊学中の88(同21)年、大審院検事総長に任命され、6年余務めた。その間、ロシア皇太子への傷害事件が大津で発生した。この事件ではどの法律を用するかが問題となった。政府部内では、皇室に対する罰則を適用し、犯人の死刑に傾いた。

 しかし、退蔵は検事総長ながら、児島惟謙(これかた)大審院長(今で言えば最高裁判所長官に当たる)と連絡を取りながら、司法大臣に法の国際的常識を進言した。その結果、犯人は無期懲役となり無事難局を切り抜けた。93(同26)年には大審院長となり3年7カ月務めた。この後、在野の弁護士となり、さらに東京弁護士会長に推された。その間、足尾鉱毒問題がおこり、控訴審では民衆請願の正しいことや鉱毒問題の根本的解決を求めるなど、住民側に立つ堂々の弁論を展開した。退蔵は儒学的な教養とヨーロッパ流の近代的教養を身に付けた敬けんなキリスト教信仰者であった。郷里高鍋にも思いをはせ、慈善事業や後輩の指導にも関心を寄せた。(徳永 孝一)

◎西洋式生活
 退蔵は1888(同21)年の3回目のヨーロッパ遊学に際し、自宅を売り払った8,000円を費用にあて、すよ子夫人とともに出発した。夫妻がパリに到着すると夫人が2女を出産。アジア、アフリカ、ヨーロッパを経由して生まれたので、三洲子(みすこ)と名付けた。さらにベルリン滞在中にも3女が生まれ、リン子と名付けている。いかにも退蔵らしい命名であった。一方、帰国後も生活の中にヨーロッパ方式を取り入れた。ところが母はストーブよりこたつを好み、夫人はいすより席座を便利とした。あこがれの西洋式生活は崩れ去ったが、世界に思いをはせた退蔵と現実の家庭生活がしのばれる。

出典:みやざきの101人

大岐ちゃんメモ
・高鍋町舞鶴公園内に萬歳亭あり。これは三好退蔵の住家を移築したものです。
  


Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 16:40Comments(0)宮崎の偉人

2018年07月31日

【地域づくりと宮崎101人】⑩三島 通庸(みしま みちつね)

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三島 通庸(みしま みちつね) 1835~1888

●庄内・三股地域繁栄に尽くした
 旧薩摩藩士。幕末動乱期の寺田屋事件にもかかわり、戊辰(ぼしん)戦争では各地を転戦した。1869(明治2)年に旧都城領主島津元丸は鹿児島へ移住し、代わって同年9月に三島が都城地頭に抜てきされて着任、広小路の商家を役宅とした。
 しかし旧領主を慕う領民が排斥したために、彼はわずか24日で鹿児島に引き揚げ、都城地域の調査研究に力を注ぎ、三郷分割と農耕地を総割換えする大御支配の2大方針を画策した。

 三郷分割は、山田・西岳など10カ村を上荘内郷、郡元・安久など15カ村を下荘内郷、石寺村を梶山郷とし、同年11月に知藩事から布告させた。さらに翌年3月には下荘内郷のうち5カ村を割き梶山郷に編入、9月に梶山郷・勝同郷を併合して下三俣郷と称し、改めて三島は上荘内・下三俣両郷の地頭となった。
 大御支配は、1年4カ月をかけて綿密に調査し、各戸に田2反2畝・畑3反1畝25歩を配分した。
 三島は、安永村(現都城市庄内町)を中心に建設手腕を振るい、71(明治4)年11月鹿児島へ帰るまでの間に地頭として両郷の経営に尽力した。注目される業績としては住宅街地の建設、鹿児島などから商人を集めての町づくり、高岡・国分・都城・小林に通じる道路や安永川の堤防修築、母智丘神社の建立、そのほか産業・教育・兵制の整備などが挙げられる。
 地域の人々は彼の業績をたたえ、1909(明治42)年に顕彰碑を庄内小学校内に建てている。三島はその後、各県の県令や警視総監としても活躍した。特に福島県令であった82(明治15)年会津道路開削をめぐって県会と激しく争った事件は有名である。(藤井 美智雄)

◎新任地頭の門標斬り事件
 版籍奉還の後、旧薩摩藩主であった島津忠義は知藩事となり、政府の施策にもとづいて藩政改革を行った。
 旧来私領として分知していた地域を直轄地に入れて、新たに地頭を置いた。都城も同様に、三島通庸が地頭として済陽(わたよう)という商家屋敷に着いた。その門柱には幅6寸、長さ5尺の「地頭標札」が掲げられた。彼は赴任にあたり、都城開発を期していたが、意外に住民の多くは歓迎せず、むしろ冷淡であった。学者の高野安恒は名文をつづって「旧主元丸を地頭に」と切々と訴えたが、三島はこれを無視した。
 そのようなときに1869(明治2)年9月11日の夜半、地頭役宅の大きな門標札を何者かが切り、溝に投げ捨てた。
 翌日徹底的に取り調べたが、ついに要領を得なかった。一説には、三島地頭自ら門標を破壊して、憤まんを晴らしたといううわさもあった。

大岐ちゃんメモ
三島通庸は全国で活躍したそうです。栃木県では三島神社という三島通庸が祭神となっている神社があります。
三島神社(栃木県那須塩原市三島5-336-5)
2019年の大河ドラマ「いだてん(韋駄天)」にて俳優の生田斗真さんが三島通庸の息子三島弥彦を演じるそうです。
ネタバレするといけないので興味ある方はググってみてください。






  
タグ :宮崎歴史


Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 12:01Comments(0)宮崎の偉人

2018年07月30日

【地域づくりと宮崎101人】⑨小林 乾一郎(こばやし けんいちろう)

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⑨小林 乾一郎 1845~1929

●県北の民有林を守る
 延岡藩士の家に生まれ、藩校で学んだ。19歳のとき藩費留学生として長崎に遊学し、漢学・英語を学び、砲術の修得も目指した。1869(明治2)年にも留学生として東京の大学南校(東京大学の前身)に学び、後、横浜修文館の英語教師となる。
そこで陸奥宗光や星享(ほしとおる)を知る。1873(同6)年になると地元から請われて帰郷し、「延岡社学」(同8年に私立亮天社と改称)の英語教師となる。
以来6年間、青年・女子教育を推進した。その間におこった西南戦争では、順逆をただす手紙を県令大山綱良に送った。
折からの自由民権運動の広がりの中で彼は考えるところがあり、亮天社をやめて政治家を志した。1881(同14)年には星のすすめで自由党に入り、全国各地の大会にも参加した。

 そのころ民有林国有化の動きがあり、このことを察知した彼は1885(同18)年、反対運動の先頭に立って、県北民有林の確保のために奔走した。翌年には宮崎県会議員に当選し、同志5人で「宮崎自由党」を組織した。27人の定数では少数からの出発であり常に多数の圧迫を受けたが、しだいに同志も増え副議長を経て、1890(同23)年から2年間議長を務めた。
小林は県会では川越進と並ぶ名議長として名高い。県議を6年務めた後、1892(同25)年には衆議院議員に当選し、以来10年余中央政界で活躍した。その後1899(同32)年から旧藩主内藤家の顧問となり、同家が主導し進展させてきた教育に再度携わり、さらに日平(ひびら)銅山(現北方町)の経営に笠原鷲太郎を招くなど県北の発展に尽くした。天外と号し、漢詩や書画に親しみ梅の絵を得意とした。(徳永 孝一)

◎民衆の先頭に立つ
 1882(明治15)年に内務省から官林を引き継いだ農商務省山林局は、台帳のなかに、官・民両有のものがあることを見つけ再調査を始めた。調査は、旧来の住民の慣行や林業者の生活まで配慮せず、強引に官林に編入したので、多くの山林地主が不満を持った。
旧延岡藩の民有林は、1880(同13)年には正式な民有林に認められていた。
この権力的なやり方に憤りを感じた小林は1885(同18)年、臼杵郡の民有林を守るため、県議の説得や田辺山林局長(元宮崎県知事)への面会を行ったものの、情勢は不利となり、そのため臼杵地方は物情騒然となった。たまたま農商務大臣の更迭があり、政府も願いをききいれたので、運動の目的が達成された。

出典:みやざきの101人

大岐ちゃんメモ
現在では小林乾一郎が国有化から守った森林を、大切にしていこうという活動が行われています。
延岡市愛宕山の山頂に小林乾一郎の胸像が奉られています。
  


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2018年07月23日

【地域づくりと宮崎101人】⑧秋月 種樹(あきづき たねたつ)

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⑧秋月 種樹(あきづき たねたつ)1846~1877

●明治維新の大業貢献
 時は文久2(1862)年師走のこと、種樹が幕府の学問所奉行に任命されたとの一報が高鍋城下に届いた。教育の改草は幕政の急務であり、代々の林家に代わって学問所を取り仕切ることになった。小藩出身、29歳の若さでの抜てきは異例であった。それほどまでに種樹の学問は、世に評価されていたのである。

 それもそのはず、彼は当時の最も優れた儒学者・安井息軒や塩谷宕陰(しおのやとういん)らに学び、小笠原明山(唐津藩)・本田静山(田中藩)とともに、学問界の“三公子”と称され知られていたのである。この頃、種樹は楽山(らくざん)と号した。

 彼は昌平黌(しょうへいこう)教授に、かつての恩師、息軒・宕陰・芳野金陵(当時、三博士と称えられた)を迎え、改革の第1歩を踏み出した。翌文久3年には若年寄格となり、将軍徳川家茂(いえもち)の侍読を兼ねた。これまた、外様(とざま)大名の一子としては、前代未聞のことであった。

 徳川慶喜(よしのぶ)が大政を奉還して間もなく、彼は明治政府の参与となり、明治天皇の侍読となって学問を講義した。さらに公議所議長を務め、版籍奉還、廃藩置県など維新の大業成就に尽力した。1869(明治2)年に大学大監の命を受け、翌年には大学校・小学校規則を発布、今日の学校制度の礎(いしずえ)を築いた。1882(明治15年)年、高鍋に戻り10年間千歳亭(せんざいてい)に悠々自適の生活を送った。のち病を得て高木兼寛の勧めにより、神東川県片瀬に転地療養、ここが終えんの地となった。行年、72歳であった。(山口 保明)


◎すべてに通じた風流人
 種樹は雅号を千歳叟(そう)・古香などと称した。種樹を診療したこともある眼科医杉田作郎は、「貴人(あてびと)を誘ひ出しけり夏の月」の一句を種樹に届けた。

 すると古香名の朱筆で、「私などコンナお客を待っているや久し。一向来てくれぬので閉口しています。チトお誘いを待つ」といったユーモアたっぷりの句評。

 1895(明治28)年、杉田が眼科修業に上京するとき、種樹は、「埋木になるな錦を着た紅葉」の一句を贈り激励した。
 杉田は種樹について「公的な偉さを別にして、すぐれた学者であり、極めて庶民的な文化人であったことや、画家としても詩人・俳人としても一流の人であったことの方がわたしには大変興味がある」(「直翁夜話」)と語っている。種樹の風雅人としての面目躍如、人間の大きさが伝わってくる。

出典宮崎の101人:https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/index.html

大岐ちゃんメモ
書や絵画を多く残しているらしく、宮崎にも多く残しているそうです。
秋月種樹ゆかりの地として
・萬歳亭はなれ(秋月種樹公の住宅)宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6937-2(舞鶴公園内)
・高鍋町歴史総合資料館:宮崎県児湯郡高鍋町大字南高鍋6937-2(舞鶴公園内)  


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2018年07月12日

【地域づくりと宮崎101人】⑦島津 啓次郎(しまづ けいじろう)

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⑦島津 啓次郎(しまづ けいじろう)1846~1877

●米国帰りの悲劇の俊才
 旧佐土原藩主の子で、佐土原に生まれた。3歳で寺社奉行町田宗七郎の養子となったが、1873(明治6)年の留学中、修学資格の変更で元の島津に戻った。10歳になると鹿児島に遊学、翌年には東京の勝海舟の塾に入って、世界へ眼を開くきっかけを与えられた。1870(同3)年、海舟のすすめもあって、藩費留学生として12歳の若さで米国に渡った。滞米生活7ヵ年、その間アナポリス、ニューハーベン、グリンブルドで英仏語を中心に文学、数学を学んだ。

 帰国から数日後、東北地方の旅に出て、戌辰戦争の旧佐土原藩戦没者の墓に参り霊を弔っている。その後、華族会館から華族子弟の教育意見を求められるが、教育の自由平等とはほど遠い学校(学習院)の設立計画に反対し決別した。望郷の思いを抑えきれず、海舟に書いてもらった西郷隆盛あての紹介状を懐に故郷の広瀬に帰った。すぐに同志とはかり、遊惰にながれる青年の教育事業に取り組んだ。そこではアメリカで学んだ自由民主の思想が新鮮な知識として伝えられた。

 3ヵ月後、西南戦争が起こると、有司専制(藩閥のエリートが独断的に政治を行うこと)からの解放をめざし、父や兄の説得をも押し切り「吾人の為さんと欲する所を為すのみ」として佐土原の同志200余人とともに参戦した。西郷は若く有為な人材ゆえに参軍を断ったが、島津啓次郎のひきいる佐土原隊は熊本の各地を転戦した。

 途中、単身上京して事態収拾の計画をたてたが成功せず、再度本隊と合流して可愛岳(えのたけ)、三田井、椎葉、米良、小林を経て1877(同10)年9月24日、西郷らとともに鹿児島の城山で21歳の生涯を終えた。(徳永 孝一)

◎私学をおこす
 広瀬に帰った啓次郎は、新知識伝授の教育事業に意欲をもった。そこで50人の同志とともに閑静な三納山中に入り廃寺(谷照寺=国昌寺)を借り、「自立舎」と名づけた学習会をはじめた。舎長には島津啓次郎が推され、運営はアメリカ仕込みの全員できめる民主的な方法で、啓次郎も炊事、湯沸かしなどを喜んで引き受けた。

 寝起きをともにするなかで読書・講演・討論等を通じ学習が深まったという。それから3カ月後、同志の奔走で広瀬天神山に「外字文黌」という私学校が誕生した。啓次郎は豪放な性格で物事に動ぜず、上下の別け隔てなく接する情の厚い人であった。

〇ちょっと一言
勝海舟には「坂本竜馬の再来か」とまで言われるほど若くして有望のある人だったようですが、21才で戦死とは若すぎます。
島津啓次郎ゆかりの地として
広瀬中学校に胸像(〒880-0211 宮崎県宮崎市佐土原町下田島20305−12)
広瀬神社(〒880-0211 宮崎県宮崎市佐土原町下田島9175)
などあります。





  


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2018年07月05日

【地域づくりと宮崎101人】⑥小倉 処平(おぐら しょへい)

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みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!
⑥小倉 処平(おぐら しょへい)1846~1877

●「貢進生制度」を実現
 飫肥(現日南市)の生まれ、中級藩士長倉喜太郎の2男。18歳のとき同藩士小倉九十九(つづら)の養子となった。1864(元治元)年に藩命で京都に行って藩の外交に当たり、後、藩校振徳堂の句読師(くとうし)(読み書きを教える人)・寮舎長にも選ばれた。処平の指導理念は世界雄飛を目指す進歩的なもので、生徒から尊敬を集めていた。間もなく江戸に出て、安井息軒の門人となり、陸奥宗光・谷干城(たてき)らと交流があった。

 明治に入ると、公費による長崎朗田学制度を藩主に進言し、1869(明治2)年には小村寿太郎、伊東益夫、田原億蔵を、自ら引率して長崎に留学させた。当時、大学南校(東京大学の前身)は、雄藩出身者で占められていたので、小藩からも学生を出す「貢進生制度」を同志とともに進め、実現させた。小村寿太郎も入学できて、後に大成する契機を得た。処平はこのころ文部権大丞(もんぶごんだいじょう)の職についていた。

 1871(明治4)年に海外留学を命ぜられ、英国、フランスで政治や経済を学んだが、国内で征韓論決裂のことを知り急いで帰国、西郷隆盛・板垣退助らが下野すると、彼もまた飫肥に帰郷した。1874(同7)年佐賀の乱が勃発し、敗れた首領江藤新平らがひそかに処平を頼って飫肥に潜入してきたのを、外ノ浦港から土佐へ逃亡させた。そのために彼は禁錮刑に服し、後、大蔵省七等出仕となった。

 西南戦争が起こると、「日向の人心を鎮ぶしてくる」と唱えて帰郷したが、すでに飫肥士族300名が前線にあることに義を感じ、薩軍奇兵隊総監として転戦、和田越(現延岡市)の戦いで負傷し従容として自刃した。『英国租税年表』などの訳述を残している。(藤井 美智雄)

◎家族愛と教育一家
 処平は孝養心の深い人物であったことが、留学先の英国から家族宛の手紙に表されている。「英国竜動府自一筆啓上仕候」に始まる文面には、両親兄弟への安否伺いから、「養生第一にして何卒ご無理なきように」と美文で綴られている。遠く異郷の地にある身を案じてくれる家族へ、無事を伝え、愛情にあふれた心遣いで満たされている。

 処平白身が藩費留学の促進や小村寿太郎育ての恩師であるなど教育への熱意はもちろんであるが、兄の長倉外字も安政年間に振徳堂の助教を務め、県官を歴任。西南戦争では飫肥隊編成の先駆けとして活濯し、戦後では3年の刑期を送った後、農商務省の御用掛に出仕している。弟の長倉雄平はまれにみる努力家で、文部省督学局に勤務の後、学校教師に転じて、新潟、山梨など各県の師範学校長を経て、1906(明治39)年退職後は帰郷して後進の指導に務めた。兄弟共に教育者であった。
出典:https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/006/006.html

〇大岐ちゃんメモ
「飫肥西郷」と呼ばれ皆から親しまれた小倉処平。早くから小村寿太郎の才能に目を付けていた小倉処平は小村を早い時期から留学させ、小村は外交官として名を残すわけですが、小村がハーバード大学に留学している時に西南戦争で自刃。小村は帰国後すぐに小倉の墓へ向かい号泣したそうです。
小倉処平ゆかりの地として
振徳堂(〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目2−1)
加療の地( 〒889-0102 宮崎県延岡市北川町長井3942)
があります。
  


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2018年07月02日

【地域づくりと宮崎101人】⑤石井 十次(いしい じゅうじ)

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大事ではないかと考えました。ということで、
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⑤石井 十次(いしい じゅうじ)1865~1914

●生涯かけて孤児救済
 日本の近代化の中で、富国強兵を国是としていた時代、キリスト教の博愛主義を貫き「孤児救済」に生涯をかける“直情径行の快男児”(徳富蘇峰の弔辞)が現れた。当時は福祉を基底においた社会政策もなく、自ら開拓するよりほかにない信念の選択であった。この難事業に挑んだ男、それが石井十次である。

 十次は上江村馬場原(現高鍋町)に藩士の子として生まれ、幼少時は郷里の塾に学び、15歳で文字通り学に志し上京したが、脚気(かっけ)にかかり帰郷。16歳で結婚、上江小学校教員、宮崎警察署書記を務めるなどしたが、病を得て宮崎病院院長荻原百々平(どどへい)の治療をうけた。百々平は彼にキリスト教を説き、医者への道を勧めた。

 1882(明治15)年、十次は岡山県甲種医学校に入学、ここで新島襄(じょう)の活動を知り感激した。やがて英国のブリストル孤児院のジョージ・ミューラーの生き方に心をよせ、自分の生き方の指針を定めた。
 医学校卒業後、診療所での実習を続けたが、この時近くの大師堂で巡礼の子・前原定一を引き取った。救済の第1番目である。

 間もなく孤児教育会を設け、決断の時を迎えた。“人は2人の主に仕うること能(あた)わず”(「マタイ伝」)と、決然として医学書を焼き捨てた。以降、濃尾(のうび)震災の93人、東北大飢饉(ききん)の823人、岡山孤児院は在院者を含めると1,200人にも達した。

 十次は子供の将来を考え、教育と労働を両軸に実践、“働く喜び”を教えた。1910(同43)年、先発者に加えて西都市・茶臼原(ちゃうすばる)への移転を開始、「鍬鎌主義」の理想実現に燃えた。十次の一生は、孤児にささげた慈愛の一生だった。(山口 保明)

◎蘇峰と十次
 言論界を常にリードしていた徳富蘇峰(そほう)は、「尊兄の至誠に感じたしるし」として、未見の友十次に金一封を寄付した。感激の初対面は、1899(明治32)年5月の第1回東京慈善音楽会。院児音楽隊の演奏に続き、十次は幻灯によって岡山孤児院の経過や実情を説明、集会者に多大の感銘を与えた。

 蘇峰はやおら登壇、「この10年社会に代わり、孤児の友として苦心経営、今日に至った石井十次君の労を謝するため、一同起立して、もって感謝の意を表したい」と提案。満場千余人があらしのような拍手でたたえた。十次の生涯忘れ得ない出来事だった。

 蘇峰は「国民新聞」に十次を悼み長文の弔辞を掲げた。それから8年を経て、茶臼原の十次の墓にもうでた。「煙霞勝遊記」に「無限の慈悲と、善根と、無量の勇気と、信仰のありき」と記し、誇るべき十次の歩みだと追懐している。

〇大岐ちゃんメモ
「児童福祉の父」と呼ばれ、「岡山4聖人」の一人。岡山で医師を目指していましたが、孤児救済に生涯を捧げました。石井十次がいなければ救われなかった子供も多かったと思います。
石井十次ゆかりの地
宮崎県総合文化公園に銅像
石井十次資料館(宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)
石井記念友愛社( 〒884-0102 宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)

  

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2018年06月29日

【地域づくりと宮崎101人】④内藤 充眞院(ないとう じゅうしんいん)

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④内藤 充眞院(ないとう じゅうしんいん) 1800~1880

●源氏物語注釈の才女
 彦根藩主井伊直中の第9子で名は充姫、内藤家に嫁ぎ繁子と名乗るが、夫の政傾が37歳で逝去後、髪をおろし充眞院と称した。35歳であった。文学、絵画の才に優れ、女性の作品として高く評価される旅日記2編がある。

 江戸~延岡往復の日記で『五十三次ねむりの合の手』江戸-延岡。『海陸返り咲ことばの手拍子』が延岡-江戸。どちらも自筆のスケッチ入りで、神官、かご、宿場の娘、川渡し、港のにぎわいなど、さらに荒井(新居)の関所の、「女人改め」の描写は、人見女の服装を克明に記している。元治から慶応へ元号が変わった道中での時代の推移がよみとれる。政変の続く中で、参勤交代制度の変革に伴う江戸と領地を往復の旅日記である。将軍家茂の先発隊と遭遇し、また公家衆との行き合いを避けるなど、崩壊してゆく権威を譜代大名家の女65歳の視座がとらえる。

 1860(万延元)年3月の雪を血で染めた桜田門外の変で、暗殺された大老井伊直弼(なおすけ)は充眞院の弟であった。充眞院は1863(文久3)年延岡へ。2年後再び江戸へ向かう。

 内藤家は代々風雅な藩主が多く、充眞院は風虎(義泰)の家集を発見、修復し後書きを自分で書く。品位、玲瀧(れいろう)と匂(にお)う名文である。

 源氏物語に通暁し54帖の注釈。また、美術の造けいも深く金比羅参拝の折、大書院での観照は卓抜である。子どもの無い充眞院は姪の光姫を旅に同行、厳しいしつけと母心旅情が供の者へのいたわりとともに光っている。天賦ともいえる才華の女人は、東京青山墓地に眠っている。(三島 敏子)

◎時空をこえて
 延岡の生活を基にウィットに富むエッセイ集「色々見聞きしたる事を笑ひに書」は、蛇よけのまじない、金魚の飼い方など、まちの様子に精通した内容で他に多数の著書がある。

 日記の1節、小雨の街道で〈…ほこほこと三味線の音ス…〉2階の女の艶(つや)っぽい幻影が浮かぶ。歌舞音曲(おんぎょく)の情緒風流をもたしなみ、地元の名物に美味求心をこらす。庶民のくらしに、心ゆき届く描写が多い。

 1865(元治2)年3月15日、江戸へ旅立つ-港までは川下りの御座船、別れを惜しみ船を追う娘たち、小雨けぶる城の藤は花盛りせめてかたみと1枝を手折り、船に結び歌を詠む〈けふこそハ(は)つきぬ名残を川水に移してにほへ藤浪のはな〉。延岡の女性たちの「充眞院を学ぶ会」は発足10周年に当たって充眞院の遺徳顕彰のため、多くの人々の賛同を得て1997(平成9)年秋、記念像を建立。その深沈とした眼差しは念珠を手に、時空をこえる。


大岐ちゃんメモ
内藤充眞院は江戸で生まれ60年以上ほとんど江戸から出たことが無かったようです。延岡に帰ることになった時60歳を超えており、それだけ当時の江戸が混乱していた事が分かります。
充眞院の銅像がある内藤記念館は現在閉館中。パワーアップするために改装中とのことです!!
開館したらぜひ遊びに行きましょー!!
晴れ
  


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2018年06月28日

【地域づくりと宮崎101人】③安井 息軒(やすいそっけん)

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③安井 息軒(やすいそっけん)1799~1876

●将軍直参の大儒学者
 息軒の父・滄洲(そうしゅう)も優れた儒学者であった。その教育を受けて、幼少の時から勉学に努めた。

 息軒は通称「仲平」と呼ばれた。仲平の生い立ちや、成年に達してから大阪に出ての刻苦勉励の様子、やがて江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学んだ時期の修学力行ぶりは、明治の文豪・森鴎外の「安井夫人」に親しみ深く描かれている。

 江戸の自室に「今は音を忍が岡の時鳥いつか雲井のよそに名告らむ」と書いて張っていた。いつか天下に名を知られる人間になってやるぞというひそかな決意は、まさに青雲の志そのものである。

 28歳で藩主・伊東祐相(すけとも)の侍読(藩主に講義する人)となり、翌年帰国して夫人を迎えた。
 藩主に仕える傍ら父・滄洲を助けて、清武の明教堂で子弟の教育にあたったが、1831(天保2)年、滄洲が藩校振徳堂総裁となったので、飫肥に移ってその教育に従事した。

 1838(天保9)年、藩務を辞して江戸に上り翌年「三計塾」を開いた。以後37年間に2,000人の塾生を育てた。江戸に遊学する諸藩の学徒で、他の塾に物足りなくなった者は、三計塾に入ったと伝えられている。明治の歴史に名を残した谷干城(たてき)、品川弥二郎、陸奥宗光、三好退蔵などはこの塾生であった。

 藩主に進言して、飫肥藩内で種痘を実施したり、養老の礼を行ったりした。養老の礼は、75歳以上の高齢者を藩主が招待して、懇切に酒肴でもてなした。1862(文久2)年、息軒は将軍直参の儒学者となったが、幕府の余命はその後5年しかなかった。(甲斐 亮典)

◎安井息軒旧宅
 清武町中野に保存されている安井息軒旧宅。旧宅としては、本県唯一の国指定史跡である。庭園の一隅に「安井息軒先生誕生地」の記念碑がある。題字は徳川家達(いえさと)の筆跡。家達は徳川慶喜の水戸退去後に、徳川宗家を継いだ人。後に貴族院議長となった。

 碑文の作者は、息軒の孫・安井小太郎である。書は最後の藩主・伊東祐帰(すけより)の嫡男・祐弘の筆。1929(昭和4)年「半九公園」の完成時に建てられた。「半九」とは、息軒の号で「百里を行く者は九十里をもって半ばとする」の意味である。

出典:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/003/003.html

大岐ちゃんメモ↓↓↓
安井息軒は、国の繁栄には「人材育成」と「文化の繁栄」が大事だと考えたそうで、弟子をたくさんとったそうです。その弟子を代表して陸奥宗光がいますが、前回ブログで取り上げた小村寿太郎はこの陸奥宗光に認められ、外交の世界に入ったそうです。
なんか歴史がつながっている感じがします。小村「息軒先生どんな方でした?」陸奥「いやめちゃくちゃこわかったよ~厳しかったぜ!」なんて会話をしていたかもしれませんね。しかも外国に向かう船の上とかで。
安井息軒も宮崎県総合文化公園に銅像が立っています。
安井息軒ゆかりの地として
安井息軒旧家(宮崎県宮崎市清武町加納甲3368-1)国指定文化財
宮崎市きよたけ歴史館( 宮崎県宮崎市清武町加納甲3378-1)
等があります。観光の際ぜひお立ち寄りください。


  


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2018年06月27日

【地域づくりと宮崎101人】②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)

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②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)1855~1911
●偉大な業績の外交官
 現在の日南市飫肥に生まれた。7歳の時藩校振徳堂に入り勉学にはげみ、15歳でないと入寮できない振徳堂東寮入寮を14歳の時認められた。

 秀才の寿太郎は15歳の時、藩の留学生として学友5人とともに長崎へ遊学し英語を学んだ。さらに、彼1人だけが東京大学の前身大学南校に進んだ。同校でも優秀で、1875(明治8)年、21歳のとき文部省第1回留学生の11人に選ばれ、米国・ハーバード大学で法律を学び優秀な成績で卒業した。

 帰国後、大阪裁判所判事、外務省翻訳局長などを経て駐米・駐露特命全権公使、47歳で外務大臣となり、1902(同35)年に日英同盟を締結した。

 1904(同37)年、日露戦争が起こった。わが国は戦争が長引くと不利になる状況のもと、アメリカの仲介でポーツマス講和会議に臨んだ。ロシア側の譲歩しない強い態度で交渉は大いに難航したが、寿太郎のすぐれた英知で終結をみた。

 その後、再び外務大臣となり、各国との条約改正をすすめ、不平等な関税自主権も回復させた。1911(同44)年、外務大臣を辞任し、神奈川県葉山で永眠、57歳だった。

 子供のころから秀才であったが、特に記憶力は並外れていたという。
 外務大臣としての議会での外交演説も、1度原稿に目を通すと、演壇では原稿なしで1字1句間違えず演説し、また、日英同盟協約もその成立の時には、英文和文ともに全文をそらんじていたといい、寿太郎の記憶力が尋常ではなかったことを証明する逸話である。(前田 博仁)

◎大統額がみた寿太郎とウィッテ
 ポーツマス講和会議には米国大統領ルーズベルトの仲介で、日本は寿太郎が、ロシアはウィッテが臨んだ。

 講和成立後、ルーズベルトはジョルジ・トレベルヤンへの書簡で「日本人は常に余に真実を語り、極めて秘密性を有し、およそ彼らが言明したことは必ず実行した。とくに彼らは互いに信頼し、共同して行動する。しかるに、ロシア人は互いに信頼せず、けん制し、虚言を弄し、極めて不健全かつ普遍的な腐敗と利己とを示した」と日本人とロシア人を評している。

 小村の飾らない誠実さを大統領は信用したのである。
 さらにウィッテについて述べている。「予は彼を好まない。何故ならば彼の大言自負はただに愚を示すのみならず、これを日本人の紳士的な自重・自制に比すれは驚くほど粗野であるからである。かつ、予は彼を高尚な思想の欠けたる甚だしきわがまま者とみた。」

転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/002/002.html

大岐ちゃんメモ↓↓
小村寿太郎に関する好きな話がこちら

「伝説の1分間スピーチ」
1906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。その時、寿太郎の講演はたった1分。

「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。」

諭すようにこれだけを話すと、寿太郎は演壇を降ります。大国との会議の様子など、雄弁な語りを期待した生徒たちに対して、この短いスピーチは強い印象を残しました。
「宮崎県郷土先覚者」より
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/index.html
正直に生きて参ります!・・・泣きこれからは正直に生きていきます・・ニコニコ

小村寿太郎ゆかりの地として
国際交流センター 小村記念館 (宮崎県日南市飫肥4丁目2-20-1)
振徳堂 (日南市飫肥10丁目2番1)
宮崎県総合文化公園に銅像
等あります。観光がてらのぞいてみてはいかがでしょうか・・・ニコニコ


  

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2018年06月26日

【地域づくりと宮崎101人】①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)

始めまして!みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局
としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

そんな中宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、
これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!

①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)1849年~1920年
●国民病の脚気を治す
 幼名は藤四郎、薩摩藩士の子として穆佐郷(むかさごう)白土坂(現宮崎市高岡町)に生まれた。7歳で中村敬助の塾に入り、やがて村人から敬愛されていた医師黒木了輔(りょうすけ)にあこがれ、医者としての道を歩くことを決意。17歳の時に志望を果たし、鹿児島の医学校に進み、石神良策と英医ウィリスに師事。これが生涯英国の医学を学び、海軍に身をおく運命的な出会いとなった。

 上京した兼寛は、海軍軍医学校の英医アンダーソンに学び、彼の推挙によりセント・トーマス医学校へ留学。5年間修学の成績は抜群、明治13年に帰国した。当時脚気(かっけ)は国民病とも言われ、海軍の約3割の兵員がこの症状。帰国手始めの研究は“脚気撲滅”であった。

 その原因が栄養のアンバランスにあると確信した兼寛は、兵食の改善を提起した。しかし、森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、容易でなかった。兼寛は参議伊藤博文の助言を得て、明治天皇に謁見(えっけん)、英断を仰いだ。やがてこれが効を奏し、栄養実験船「筑波」が出港、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。

 “病気を診ずして病人を診よ”の信念に従い、今日の東京慈恵会医科大学を創設。さらに各界の協力を得て、わが国最初の看護学校を設立した。その足跡は世界的である。(山口 保明)

◎「ビョウシャ1ニンモナシ」
 1883(明治16)年、軍艦「龍驤(りゅうじょう)」は376人を乗せ、ニュージランド、南米、ハワイを経て航海。うち169人の重症脚気患者を出し、25人が死亡、航行もままならない状況に陥った。
 その翌年、軍艦「筑波」が兼寛の“改善食”を積み、品川沖から出港。龍驤と同じ航路をたどる実験を試みた。400人に近い乗組員。結果を待つ兼寛は、不安と期待が交錯して眠れない日々。…ついに来た!「病者1人もなし安心あれ」の電文。脚気患者は1人も出ず、兼寛の栄養説が証明された。それは同時に、旧日本陸軍食の欠陥を立証する結果にもなった。
 後日譚(たん)であるが、某軍医が兼寛に「筑波で脚気患者が出たらどうした?」と。兼寛は「切腹してお詫びするつもりだった」と。まさしく命を救うための、命をかけた決断だった。


転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/001/001.html

↓>大岐ちゃんメモ
髙木兼寛氏の功績をたたえ、出身地高岡の道の駅は「高岡ビタミン館」という名がつけられています。宮崎県総合文化公園に銅像も建てられ、宮崎を代表する人物ですが、なんと、北極のバリソン半島の西端の岬にも「高木岬(英:Takaki Promontory)」という名がつけられ、これも髙木兼寛の功績を称えたものだそうです。
ちなみに私は「高岡ビタミン館」はビタミン豊富な野菜や食べ物が多いからその名前なんだろうなと勝手に思っておりました・・・高岡の皆さんすいません・・・ガーン
また高木兼寛氏が創設した東京慈恵会医科大学は今年で創立137周年を迎えこれまで数多くの医師、看護師を輩出しています。

髙木兼寛ゆかりの地として
穆園広場(高岡長小山田)
天ヶ城歴史民俗資料館(宮崎県宮崎市高岡町内山3003-56)
等あります。



  

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