2018年07月12日

【地域づくりと宮崎101人】⑦島津 啓次郎(しまづ けいじろう)

こんにちは!
みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!

⑦島津 啓次郎(しまづ けいじろう)1846~1877

●米国帰りの悲劇の俊才
 旧佐土原藩主の子で、佐土原に生まれた。3歳で寺社奉行町田宗七郎の養子となったが、1873(明治6)年の留学中、修学資格の変更で元の島津に戻った。10歳になると鹿児島に遊学、翌年には東京の勝海舟の塾に入って、世界へ眼を開くきっかけを与えられた。1870(同3)年、海舟のすすめもあって、藩費留学生として12歳の若さで米国に渡った。滞米生活7ヵ年、その間アナポリス、ニューハーベン、グリンブルドで英仏語を中心に文学、数学を学んだ。

 帰国から数日後、東北地方の旅に出て、戌辰戦争の旧佐土原藩戦没者の墓に参り霊を弔っている。その後、華族会館から華族子弟の教育意見を求められるが、教育の自由平等とはほど遠い学校(学習院)の設立計画に反対し決別した。望郷の思いを抑えきれず、海舟に書いてもらった西郷隆盛あての紹介状を懐に故郷の広瀬に帰った。すぐに同志とはかり、遊惰にながれる青年の教育事業に取り組んだ。そこではアメリカで学んだ自由民主の思想が新鮮な知識として伝えられた。

 3ヵ月後、西南戦争が起こると、有司専制(藩閥のエリートが独断的に政治を行うこと)からの解放をめざし、父や兄の説得をも押し切り「吾人の為さんと欲する所を為すのみ」として佐土原の同志200余人とともに参戦した。西郷は若く有為な人材ゆえに参軍を断ったが、島津啓次郎のひきいる佐土原隊は熊本の各地を転戦した。

 途中、単身上京して事態収拾の計画をたてたが成功せず、再度本隊と合流して可愛岳(えのたけ)、三田井、椎葉、米良、小林を経て1877(同10)年9月24日、西郷らとともに鹿児島の城山で21歳の生涯を終えた。(徳永 孝一)

◎私学をおこす
 広瀬に帰った啓次郎は、新知識伝授の教育事業に意欲をもった。そこで50人の同志とともに閑静な三納山中に入り廃寺(谷照寺=国昌寺)を借り、「自立舎」と名づけた学習会をはじめた。舎長には島津啓次郎が推され、運営はアメリカ仕込みの全員できめる民主的な方法で、啓次郎も炊事、湯沸かしなどを喜んで引き受けた。

 寝起きをともにするなかで読書・講演・討論等を通じ学習が深まったという。それから3カ月後、同志の奔走で広瀬天神山に「外字文黌」という私学校が誕生した。啓次郎は豪放な性格で物事に動ぜず、上下の別け隔てなく接する情の厚い人であった。

〇ちょっと一言
勝海舟には「坂本竜馬の再来か」とまで言われるほど若くして有望のある人だったようですが、21才で戦死とは若すぎます。
島津啓次郎ゆかりの地として
広瀬中学校に胸像(〒880-0211 宮崎県宮崎市佐土原町下田島20305−12)
広瀬神社(〒880-0211 宮崎県宮崎市佐土原町下田島9175)
などあります。





  


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2018年07月05日

【地域づくりと宮崎101人】⑥小倉 処平(おぐら しょへい)

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⑥小倉 処平(おぐら しょへい)1846~1877

●「貢進生制度」を実現
 飫肥(現日南市)の生まれ、中級藩士長倉喜太郎の2男。18歳のとき同藩士小倉九十九(つづら)の養子となった。1864(元治元)年に藩命で京都に行って藩の外交に当たり、後、藩校振徳堂の句読師(くとうし)(読み書きを教える人)・寮舎長にも選ばれた。処平の指導理念は世界雄飛を目指す進歩的なもので、生徒から尊敬を集めていた。間もなく江戸に出て、安井息軒の門人となり、陸奥宗光・谷干城(たてき)らと交流があった。

 明治に入ると、公費による長崎朗田学制度を藩主に進言し、1869(明治2)年には小村寿太郎、伊東益夫、田原億蔵を、自ら引率して長崎に留学させた。当時、大学南校(東京大学の前身)は、雄藩出身者で占められていたので、小藩からも学生を出す「貢進生制度」を同志とともに進め、実現させた。小村寿太郎も入学できて、後に大成する契機を得た。処平はこのころ文部権大丞(もんぶごんだいじょう)の職についていた。

 1871(明治4)年に海外留学を命ぜられ、英国、フランスで政治や経済を学んだが、国内で征韓論決裂のことを知り急いで帰国、西郷隆盛・板垣退助らが下野すると、彼もまた飫肥に帰郷した。1874(同7)年佐賀の乱が勃発し、敗れた首領江藤新平らがひそかに処平を頼って飫肥に潜入してきたのを、外ノ浦港から土佐へ逃亡させた。そのために彼は禁錮刑に服し、後、大蔵省七等出仕となった。

 西南戦争が起こると、「日向の人心を鎮ぶしてくる」と唱えて帰郷したが、すでに飫肥士族300名が前線にあることに義を感じ、薩軍奇兵隊総監として転戦、和田越(現延岡市)の戦いで負傷し従容として自刃した。『英国租税年表』などの訳述を残している。(藤井 美智雄)

◎家族愛と教育一家
 処平は孝養心の深い人物であったことが、留学先の英国から家族宛の手紙に表されている。「英国竜動府自一筆啓上仕候」に始まる文面には、両親兄弟への安否伺いから、「養生第一にして何卒ご無理なきように」と美文で綴られている。遠く異郷の地にある身を案じてくれる家族へ、無事を伝え、愛情にあふれた心遣いで満たされている。

 処平白身が藩費留学の促進や小村寿太郎育ての恩師であるなど教育への熱意はもちろんであるが、兄の長倉外字も安政年間に振徳堂の助教を務め、県官を歴任。西南戦争では飫肥隊編成の先駆けとして活濯し、戦後では3年の刑期を送った後、農商務省の御用掛に出仕している。弟の長倉雄平はまれにみる努力家で、文部省督学局に勤務の後、学校教師に転じて、新潟、山梨など各県の師範学校長を経て、1906(明治39)年退職後は帰郷して後進の指導に務めた。兄弟共に教育者であった。
出典:https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/006/006.html

〇大岐ちゃんメモ
「飫肥西郷」と呼ばれ皆から親しまれた小倉処平。早くから小村寿太郎の才能に目を付けていた小倉処平は小村を早い時期から留学させ、小村は外交官として名を残すわけですが、小村がハーバード大学に留学している時に西南戦争で自刃。小村は帰国後すぐに小倉の墓へ向かい号泣したそうです。
小倉処平ゆかりの地として
振徳堂(〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目2−1)
加療の地( 〒889-0102 宮崎県延岡市北川町長井3942)
があります。
  


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2018年07月02日

【地域づくりと宮崎101人】⑤石井 十次(いしい じゅうじ)

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⑤石井 十次(いしい じゅうじ)1865~1914

●生涯かけて孤児救済
 日本の近代化の中で、富国強兵を国是としていた時代、キリスト教の博愛主義を貫き「孤児救済」に生涯をかける“直情径行の快男児”(徳富蘇峰の弔辞)が現れた。当時は福祉を基底においた社会政策もなく、自ら開拓するよりほかにない信念の選択であった。この難事業に挑んだ男、それが石井十次である。

 十次は上江村馬場原(現高鍋町)に藩士の子として生まれ、幼少時は郷里の塾に学び、15歳で文字通り学に志し上京したが、脚気(かっけ)にかかり帰郷。16歳で結婚、上江小学校教員、宮崎警察署書記を務めるなどしたが、病を得て宮崎病院院長荻原百々平(どどへい)の治療をうけた。百々平は彼にキリスト教を説き、医者への道を勧めた。

 1882(明治15)年、十次は岡山県甲種医学校に入学、ここで新島襄(じょう)の活動を知り感激した。やがて英国のブリストル孤児院のジョージ・ミューラーの生き方に心をよせ、自分の生き方の指針を定めた。
 医学校卒業後、診療所での実習を続けたが、この時近くの大師堂で巡礼の子・前原定一を引き取った。救済の第1番目である。

 間もなく孤児教育会を設け、決断の時を迎えた。“人は2人の主に仕うること能(あた)わず”(「マタイ伝」)と、決然として医学書を焼き捨てた。以降、濃尾(のうび)震災の93人、東北大飢饉(ききん)の823人、岡山孤児院は在院者を含めると1,200人にも達した。

 十次は子供の将来を考え、教育と労働を両軸に実践、“働く喜び”を教えた。1910(同43)年、先発者に加えて西都市・茶臼原(ちゃうすばる)への移転を開始、「鍬鎌主義」の理想実現に燃えた。十次の一生は、孤児にささげた慈愛の一生だった。(山口 保明)

◎蘇峰と十次
 言論界を常にリードしていた徳富蘇峰(そほう)は、「尊兄の至誠に感じたしるし」として、未見の友十次に金一封を寄付した。感激の初対面は、1899(明治32)年5月の第1回東京慈善音楽会。院児音楽隊の演奏に続き、十次は幻灯によって岡山孤児院の経過や実情を説明、集会者に多大の感銘を与えた。

 蘇峰はやおら登壇、「この10年社会に代わり、孤児の友として苦心経営、今日に至った石井十次君の労を謝するため、一同起立して、もって感謝の意を表したい」と提案。満場千余人があらしのような拍手でたたえた。十次の生涯忘れ得ない出来事だった。

 蘇峰は「国民新聞」に十次を悼み長文の弔辞を掲げた。それから8年を経て、茶臼原の十次の墓にもうでた。「煙霞勝遊記」に「無限の慈悲と、善根と、無量の勇気と、信仰のありき」と記し、誇るべき十次の歩みだと追懐している。

〇大岐ちゃんメモ
「児童福祉の父」と呼ばれ、「岡山4聖人」の一人。岡山で医師を目指していましたが、孤児救済に生涯を捧げました。石井十次がいなければ救われなかった子供も多かったと思います。
石井十次ゆかりの地
宮崎県総合文化公園に銅像
石井十次資料館(宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)
石井記念友愛社( 〒884-0102 宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)

  

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2018年06月29日

【地域づくりと宮崎101人】④内藤 充眞院(ないとう じゅうしんいん)

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④内藤 充眞院(ないとう じゅうしんいん) 1800~1880

●源氏物語注釈の才女
 彦根藩主井伊直中の第9子で名は充姫、内藤家に嫁ぎ繁子と名乗るが、夫の政傾が37歳で逝去後、髪をおろし充眞院と称した。35歳であった。文学、絵画の才に優れ、女性の作品として高く評価される旅日記2編がある。

 江戸~延岡往復の日記で『五十三次ねむりの合の手』江戸-延岡。『海陸返り咲ことばの手拍子』が延岡-江戸。どちらも自筆のスケッチ入りで、神官、かご、宿場の娘、川渡し、港のにぎわいなど、さらに荒井(新居)の関所の、「女人改め」の描写は、人見女の服装を克明に記している。元治から慶応へ元号が変わった道中での時代の推移がよみとれる。政変の続く中で、参勤交代制度の変革に伴う江戸と領地を往復の旅日記である。将軍家茂の先発隊と遭遇し、また公家衆との行き合いを避けるなど、崩壊してゆく権威を譜代大名家の女65歳の視座がとらえる。

 1860(万延元)年3月の雪を血で染めた桜田門外の変で、暗殺された大老井伊直弼(なおすけ)は充眞院の弟であった。充眞院は1863(文久3)年延岡へ。2年後再び江戸へ向かう。

 内藤家は代々風雅な藩主が多く、充眞院は風虎(義泰)の家集を発見、修復し後書きを自分で書く。品位、玲瀧(れいろう)と匂(にお)う名文である。

 源氏物語に通暁し54帖の注釈。また、美術の造けいも深く金比羅参拝の折、大書院での観照は卓抜である。子どもの無い充眞院は姪の光姫を旅に同行、厳しいしつけと母心旅情が供の者へのいたわりとともに光っている。天賦ともいえる才華の女人は、東京青山墓地に眠っている。(三島 敏子)

◎時空をこえて
 延岡の生活を基にウィットに富むエッセイ集「色々見聞きしたる事を笑ひに書」は、蛇よけのまじない、金魚の飼い方など、まちの様子に精通した内容で他に多数の著書がある。

 日記の1節、小雨の街道で〈…ほこほこと三味線の音ス…〉2階の女の艶(つや)っぽい幻影が浮かぶ。歌舞音曲(おんぎょく)の情緒風流をもたしなみ、地元の名物に美味求心をこらす。庶民のくらしに、心ゆき届く描写が多い。

 1865(元治2)年3月15日、江戸へ旅立つ-港までは川下りの御座船、別れを惜しみ船を追う娘たち、小雨けぶる城の藤は花盛りせめてかたみと1枝を手折り、船に結び歌を詠む〈けふこそハ(は)つきぬ名残を川水に移してにほへ藤浪のはな〉。延岡の女性たちの「充眞院を学ぶ会」は発足10周年に当たって充眞院の遺徳顕彰のため、多くの人々の賛同を得て1997(平成9)年秋、記念像を建立。その深沈とした眼差しは念珠を手に、時空をこえる。


大岐ちゃんメモ
内藤充眞院は江戸で生まれ60年以上ほとんど江戸から出たことが無かったようです。延岡に帰ることになった時60歳を超えており、それだけ当時の江戸が混乱していた事が分かります。
充眞院の銅像がある内藤記念館は現在閉館中。パワーアップするために改装中とのことです!!
開館したらぜひ遊びに行きましょー!!
晴れ
  


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2018年06月28日

【地域づくりと宮崎101人】③安井 息軒(やすいそっけん)

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③安井 息軒(やすいそっけん)1799~1876

●将軍直参の大儒学者
 息軒の父・滄洲(そうしゅう)も優れた儒学者であった。その教育を受けて、幼少の時から勉学に努めた。

 息軒は通称「仲平」と呼ばれた。仲平の生い立ちや、成年に達してから大阪に出ての刻苦勉励の様子、やがて江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学んだ時期の修学力行ぶりは、明治の文豪・森鴎外の「安井夫人」に親しみ深く描かれている。

 江戸の自室に「今は音を忍が岡の時鳥いつか雲井のよそに名告らむ」と書いて張っていた。いつか天下に名を知られる人間になってやるぞというひそかな決意は、まさに青雲の志そのものである。

 28歳で藩主・伊東祐相(すけとも)の侍読(藩主に講義する人)となり、翌年帰国して夫人を迎えた。
 藩主に仕える傍ら父・滄洲を助けて、清武の明教堂で子弟の教育にあたったが、1831(天保2)年、滄洲が藩校振徳堂総裁となったので、飫肥に移ってその教育に従事した。

 1838(天保9)年、藩務を辞して江戸に上り翌年「三計塾」を開いた。以後37年間に2,000人の塾生を育てた。江戸に遊学する諸藩の学徒で、他の塾に物足りなくなった者は、三計塾に入ったと伝えられている。明治の歴史に名を残した谷干城(たてき)、品川弥二郎、陸奥宗光、三好退蔵などはこの塾生であった。

 藩主に進言して、飫肥藩内で種痘を実施したり、養老の礼を行ったりした。養老の礼は、75歳以上の高齢者を藩主が招待して、懇切に酒肴でもてなした。1862(文久2)年、息軒は将軍直参の儒学者となったが、幕府の余命はその後5年しかなかった。(甲斐 亮典)

◎安井息軒旧宅
 清武町中野に保存されている安井息軒旧宅。旧宅としては、本県唯一の国指定史跡である。庭園の一隅に「安井息軒先生誕生地」の記念碑がある。題字は徳川家達(いえさと)の筆跡。家達は徳川慶喜の水戸退去後に、徳川宗家を継いだ人。後に貴族院議長となった。

 碑文の作者は、息軒の孫・安井小太郎である。書は最後の藩主・伊東祐帰(すけより)の嫡男・祐弘の筆。1929(昭和4)年「半九公園」の完成時に建てられた。「半九」とは、息軒の号で「百里を行く者は九十里をもって半ばとする」の意味である。

出典:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/003/003.html

大岐ちゃんメモ↓↓↓
安井息軒は、国の繁栄には「人材育成」と「文化の繁栄」が大事だと考えたそうで、弟子をたくさんとったそうです。その弟子を代表して陸奥宗光がいますが、前回ブログで取り上げた小村寿太郎はこの陸奥宗光に認められ、外交の世界に入ったそうです。
なんか歴史がつながっている感じがします。小村「息軒先生どんな方でした?」陸奥「いやめちゃくちゃこわかったよ~厳しかったぜ!」なんて会話をしていたかもしれませんね。しかも外国に向かう船の上とかで。
安井息軒も宮崎県総合文化公園に銅像が立っています。
安井息軒ゆかりの地として
安井息軒旧家(宮崎県宮崎市清武町加納甲3368-1)国指定文化財
宮崎市きよたけ歴史館( 宮崎県宮崎市清武町加納甲3378-1)
等があります。観光の際ぜひお立ち寄りください。


  


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2018年06月27日

【地域づくりと宮崎101人】②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)

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②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)1855~1911
●偉大な業績の外交官
 現在の日南市飫肥に生まれた。7歳の時藩校振徳堂に入り勉学にはげみ、15歳でないと入寮できない振徳堂東寮入寮を14歳の時認められた。

 秀才の寿太郎は15歳の時、藩の留学生として学友5人とともに長崎へ遊学し英語を学んだ。さらに、彼1人だけが東京大学の前身大学南校に進んだ。同校でも優秀で、1875(明治8)年、21歳のとき文部省第1回留学生の11人に選ばれ、米国・ハーバード大学で法律を学び優秀な成績で卒業した。

 帰国後、大阪裁判所判事、外務省翻訳局長などを経て駐米・駐露特命全権公使、47歳で外務大臣となり、1902(同35)年に日英同盟を締結した。

 1904(同37)年、日露戦争が起こった。わが国は戦争が長引くと不利になる状況のもと、アメリカの仲介でポーツマス講和会議に臨んだ。ロシア側の譲歩しない強い態度で交渉は大いに難航したが、寿太郎のすぐれた英知で終結をみた。

 その後、再び外務大臣となり、各国との条約改正をすすめ、不平等な関税自主権も回復させた。1911(同44)年、外務大臣を辞任し、神奈川県葉山で永眠、57歳だった。

 子供のころから秀才であったが、特に記憶力は並外れていたという。
 外務大臣としての議会での外交演説も、1度原稿に目を通すと、演壇では原稿なしで1字1句間違えず演説し、また、日英同盟協約もその成立の時には、英文和文ともに全文をそらんじていたといい、寿太郎の記憶力が尋常ではなかったことを証明する逸話である。(前田 博仁)

◎大統額がみた寿太郎とウィッテ
 ポーツマス講和会議には米国大統領ルーズベルトの仲介で、日本は寿太郎が、ロシアはウィッテが臨んだ。

 講和成立後、ルーズベルトはジョルジ・トレベルヤンへの書簡で「日本人は常に余に真実を語り、極めて秘密性を有し、およそ彼らが言明したことは必ず実行した。とくに彼らは互いに信頼し、共同して行動する。しかるに、ロシア人は互いに信頼せず、けん制し、虚言を弄し、極めて不健全かつ普遍的な腐敗と利己とを示した」と日本人とロシア人を評している。

 小村の飾らない誠実さを大統領は信用したのである。
 さらにウィッテについて述べている。「予は彼を好まない。何故ならば彼の大言自負はただに愚を示すのみならず、これを日本人の紳士的な自重・自制に比すれは驚くほど粗野であるからである。かつ、予は彼を高尚な思想の欠けたる甚だしきわがまま者とみた。」

転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/002/002.html

大岐ちゃんメモ↓↓
小村寿太郎に関する好きな話がこちら

「伝説の1分間スピーチ」
1906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。その時、寿太郎の講演はたった1分。

「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。」

諭すようにこれだけを話すと、寿太郎は演壇を降ります。大国との会議の様子など、雄弁な語りを期待した生徒たちに対して、この短いスピーチは強い印象を残しました。
「宮崎県郷土先覚者」より
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/index.html
正直に生きて参ります!・・・泣きこれからは正直に生きていきます・・ニコニコ

小村寿太郎ゆかりの地として
国際交流センター 小村記念館 (宮崎県日南市飫肥4丁目2-20-1)
振徳堂 (日南市飫肥10丁目2番1)
宮崎県総合文化公園に銅像
等あります。観光がてらのぞいてみてはいかがでしょうか・・・ニコニコ


  

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2018年06月26日

【地域づくりと宮崎101人】①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)

始めまして!みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

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①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)1849年~1920年
●国民病の脚気を治す
 幼名は藤四郎、薩摩藩士の子として穆佐郷(むかさごう)白土坂(現宮崎市高岡町)に生まれた。7歳で中村敬助の塾に入り、やがて村人から敬愛されていた医師黒木了輔(りょうすけ)にあこがれ、医者としての道を歩くことを決意。17歳の時に志望を果たし、鹿児島の医学校に進み、石神良策と英医ウィリスに師事。これが生涯英国の医学を学び、海軍に身をおく運命的な出会いとなった。

 上京した兼寛は、海軍軍医学校の英医アンダーソンに学び、彼の推挙によりセント・トーマス医学校へ留学。5年間修学の成績は抜群、明治13年に帰国した。当時脚気(かっけ)は国民病とも言われ、海軍の約3割の兵員がこの症状。帰国手始めの研究は“脚気撲滅”であった。

 その原因が栄養のアンバランスにあると確信した兼寛は、兵食の改善を提起した。しかし、森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、容易でなかった。兼寛は参議伊藤博文の助言を得て、明治天皇に謁見(えっけん)、英断を仰いだ。やがてこれが効を奏し、栄養実験船「筑波」が出港、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。

 “病気を診ずして病人を診よ”の信念に従い、今日の東京慈恵会医科大学を創設。さらに各界の協力を得て、わが国最初の看護学校を設立した。その足跡は世界的である。(山口 保明)

◎「ビョウシャ1ニンモナシ」
 1883(明治16)年、軍艦「龍驤(りゅうじょう)」は376人を乗せ、ニュージランド、南米、ハワイを経て航海。うち169人の重症脚気患者を出し、25人が死亡、航行もままならない状況に陥った。
 その翌年、軍艦「筑波」が兼寛の“改善食”を積み、品川沖から出港。龍驤と同じ航路をたどる実験を試みた。400人に近い乗組員。結果を待つ兼寛は、不安と期待が交錯して眠れない日々。…ついに来た!「病者1人もなし安心あれ」の電文。脚気患者は1人も出ず、兼寛の栄養説が証明された。それは同時に、旧日本陸軍食の欠陥を立証する結果にもなった。
 後日譚(たん)であるが、某軍医が兼寛に「筑波で脚気患者が出たらどうした?」と。兼寛は「切腹してお詫びするつもりだった」と。まさしく命を救うための、命をかけた決断だった。


転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/001/001.html

↓>大岐ちゃんメモ
髙木兼寛氏の功績をたたえ、出身地高岡の道の駅は「高岡ビタミン館」という名がつけられています。宮崎県総合文化公園に銅像も建てられ、宮崎を代表する人物ですが、なんと、北極のバリソン半島の西端の岬にも「高木岬(英:Takaki Promontory)」という名がつけられ、これも髙木兼寛の功績を称えたものだそうです。
ちなみに私は「高岡ビタミン館」はビタミン豊富な野菜や食べ物が多いからその名前なんだろうなと勝手に思っておりました・・・高岡の皆さんすいません・・・ガーン
また高木兼寛氏が創設した東京慈恵会医科大学は今年で創立137周年を迎えこれまで数多くの医師、看護師を輩出しています。

髙木兼寛ゆかりの地として
穆園広場(高岡長小山田)
天ヶ城歴史民俗資料館(宮崎県宮崎市高岡町内山3003-56)
等あります。



  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 12:01Comments(0)宮崎の偉人