2017年11月27日

地域版ヒムカレッジ in 小林×宮崎こばやし熱中小学校 『明日の自分に胸がはれる今日でありたい』開催しました!

10月29日(日)に、梶並農園 代表 梶並達明さんをお招きし、今年度第一弾となる地域版ヒムカレッジ 『明日の自分に胸がはれる今日でありたい 東京の名店シェフが調達に来る野菜を作る男の哲学』を開催しました!




□講師紹介
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梶並 達明 氏(梶並農園代表)

1957年岡山県生まれ。1995年、阪神淡路大震災をきっかけに大手食品メーカーを辞め、小林市にIターンして就農。妻 和枝さんの両親と4人で農業を営む。生のままでも安心して食べられる、おいしい野菜を探していたが、見つからなかったのが農業を始めるきっかけに。ひょんなきっかけで、東京の名店シェフが梶並さんの野菜を手に入れ、あまりのおいしさに感動して、梶並さんの作った野菜を利用するようになり、今ではイタリアンやフレンチ、ドイツ料理や中華料理などのシェフも顧客に多い。

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今回は宮崎こばやし熱中小学校とのコラボ企画。熱中小学校への参加者の方を始め、地域づくりに関心の高い方々がご参加くださいました!




大手食品メーカーサラリーマン、阪神大震災を経て農業へ
梶並さんの実家も農業をされていたそうですが、子どもの頃は農家が大嫌いで、親の職業に農業と書くのにすごく抵抗があったという梶並さん。反抗心も手伝い、実家は継がず大手食品メーカーに就職しました。
当時の仕事が大好きだった梶並さんは、休日でも職場に出向き先輩のやっている仕事を覚え、1年半で全ての部署の仕事を覚えて重宝されました。そんな仕事を辞めるきっかけになったのが阪神・淡路大震災でした。
震災時でも被災地に配給するために、梶並さん達従業員は休みなく働いていたそうです。そんな中聞こえてきた、課長の「明日も休み。どこにゴルフに行こうか。」という言葉に激怒。課長を怒鳴りつけてしまいました。2か月後に課長昇格試験をひかえながらも、自分の行動に責任を感じ辞職。当時の行動を人事の方に怒られたそうですが、辞めて23年経った今も会社の方々とは繋がりがあり、交流を大切にされているそうです。



「美味しい野菜をつくること」へのこだわり

・初めての農業
会社を辞め、小林に移った梶並さんが農業を始めた理由はシンプルで、小林で食べた野菜で美味しいものが見つからなかったから、自分で作ってみようというものでした。それまで梶並さんは全く農業をしたことがありませんでした。初めてねぎの種を蒔き、芽が出た時はⅤ字のクリップのような芽を見て「種を蒔くのが深すぎただろうか?」とすごく不安になるぐらいでした。しかし毎日様子を見に行っていたら、今度はピッと立ちだしたねぎを見て、「あっ、ねぎだ!」と感動したのを忘れられないそうです。自分で作ったねぎはすごく甘くてあくがないものでした。

・舌癌をきっかけに気づいたこと
 梶並さんが農薬を使わない農業を意識するようになったのは、ご自身が舌癌にかかった時でした。癌を取り除くため舌を切った際に、虫よけのための農薬をかけたら、外に皮膚が出ないようにマスクを二重にしていたにも関わらず5分もしないうちに舌がビリビリするように感じました。その時初めて、こんなに体に悪いものを使ってたんだと気づいたそうです。今でもその時のトラウマがあり、農薬はかけない、かけても必要最小限を心がけていらっしゃいます。
 今までと同じ作り方をしていてはだめだと考えた梶並さんは、小林のおじいちゃん・おばあちゃんに昔ながらの野菜の種まきの旬の見極め方を聞いて回りました。「スイートコーンは、柿木の新芽に、種が密をもったら蒔き時だよ。」、「ほうれん草は体育の日だ。10月10日運動会の日に植えてから運動会に行っていた。」といった昔ながらの教えを守って植えた野菜は、本当に根の張り方が強く他の作物よりも強かったり、あくやえぐみの少ないものになりました。堆肥も昔のやり方に習い、少量で薄くを心がけ、肥料が作物が成長した段階で切れてくれるやり方を一生懸命試行錯誤したそうです。そんな風に自分の中で「種を蒔く時期」を凄く大事にするようになっていったそうです。

・新しい野菜への挑戦
梶並さんは新しい野菜作りへも積極的です。十数年前、NHKで放送されていた「ほんまもん」というドラマの中で、沖縄の市場が出てくるシーンがありました。その市場にぶら下がっていた黄色い野菜が気になった梶並さんは、すぐに沖縄の観光協会に電話し、その正体である「ちゅらにんじん」の種を送ってもらいました。早速育ててみると、色はきれいですがにんじん臭が強いものだったそうです。それを機にいろんなところから黄色いにんじんを探し、美味しく育つ種を見つけることが出来ました。その他赤い大根、紫の大根などカラフルな大根を小林で始めて作ったのも梶並さん。色のはえる野菜はよく売れるそうです。
成功ばかりではなく、うまくいかないこともあります。フランス産のオイスターリーフは栽培が難しく今のところ断念しています。しかしまだまだ世界中のいろんな野菜に挑戦しつつ、日本にしかない既存の野菜も掘り起こしていきたいとのことでした。
また、毎年同じものを作るのではなく、レストランのからの要望も取り入れながら野菜を作られています。今年から来年は、要望の多かった菊芋の量を増やすそうです。今回はこの菊芋を参加者の皆さんに試食していただきました。



東京の名店シェフとのつながり

・「地産地消」の前に東京へ
梶並さんには、東国原知事の時代から、「地産地消じゃないだろう。オリンピックが東京であるとしたら、東京に野菜を売り込むのはオリンピックが決まってからじゃない、その前だ。」という思いがありました。ひょんなことから知り合いになった大堂津のねこやという魚屋さん(東京の一流レストランに魚を卸しています)からの紹介もあり、最初は銀座のエスキスという店にサンプルの野菜を送りました。すると予想以上の反響があり、エスキスのシェフがテレビ局を連れてやってきたそうです。また、放送された番組を見て別の店から連絡が入り、東京とのやり取りが始まりました。
 東京のシェフが宮崎でイベントをする時に、「梶並くんの野菜を取り寄せたい」と言われるそうです。「イベント会場は梶並さんも知らないしどんな野菜を作っているかも知らない。けれど東京の一流シェフが来て、梶並の野菜を使いたいという。逆に東京に先に出してよかったのかなと。地産地消は後からシェフたちが広めてくれたので。」と語られていました。

・小林と東京の仲介役
「美味しい物って地元の人って知らないんですよ。生まれた時からそこの水飲んで、そこの空気吸ってそこの米食って。よそから来た人間からすると、小林の水は抜群に美味いです。空気も抜群に美味い。野菜も抜群に美味いですよ。だけどそれって普通なんですね。だけどよそから来た人にはこんないい景色があって、こんないい野菜があって、こんないい水があって、こんないい肉があって、というのをボンボン見つけていけるわけですよ。」梶並さんとよそから来たシェフが繋がりを持つことで、今まであったのに気づかれていなかった作物の使い道があらたに見つかることもあるそうです。「へべずってあるじゃないですか。薄く皮を彫刻刀のようなものでむくんですよ。それをウォッカにつける。それを3日置いて飲むと香りが抜群にいい。うちや、うちの近所で作っているへべずは農薬を使っていないから皮を付けた時に上に膜ができない。それを使ってくれだしてから今度は近くの農家さんもうちから販売が出来るようになってきました。」
また、梶並さんが野菜を送る店に、お酒など小林の商品を紹介することもしています。少しずつですがお店のラインに小林の物を乗せられるようになってきたそうです。今後も東京、大阪、名古屋などに太いラインを作っていきたいとのことでした。


野菜づくりのモチベーション

・失敗はない
梶並さんにとって、野菜作りに失敗はないそうです。その時点でやめてしまえば失敗だけど、それを糧に工夫をし、改善していくことが出来る。特に小林は年間を通して何度も同じ作物をそだてることができます。別の場所だったら年に一度限りの作物を農薬をかけて守らなくてはならないところを、農薬をかけないことにこだわったり自分の美味しいと思うものだけ出荷することにこだわれるのも、小林だから出来ることです。

・自分の武器をもつこと
梶並さん自慢のスイートコーンが、「あそこのスイートコーンは抜群にうまいぞ」と言ってもらえるまでに6、7年かかったそうです。今ではこだわりのスイートコーンは梶並さんの武器になっています。しかし今の小林の農家さんには家の自慢の味が無く、みな同じ味。自分のところの最高の味を見つけることで、子どもたちが農業を引き継ぎ、親を超えようとしてくれるのではないかと語られていました。




明日の自分に胸をはれる今日でありたい

今回の講演のテーマ「明日の自分に胸をはれる今日でありたい」への想いを語っていただきました。
「凄いかっこいい言葉だけど、要は明日自分が楽したい。それだけなんですね。もう少しで今日草取り終わるんだけど、足だるいから止めようじゃなくて、ここまでしとけば明日が楽になる。自分を楽させる為には今日を頑張るしかないんですよ。
ここに居られる方は知らない方も多いと思いますが、ブッシュキャビアという柑橘類があります。細長いうりなみたいなミカンなんですね。今それを植えてて3年目なんですけども、来年には何とか実をつけさせたいなぁと思っています。これから体力がどうしても落ちてくるだろう、そしたらそのブッシュキャビアを次の自分の基幹作物にしてみたい、ということを考えています。1年後、2年後、3年後、4年後って楽しみがいっぱいあります。だから今日しとかないと明日に胸がはれないという部分があるんです。」

梶並さんのお話からは、美味しく育ってほしいという野菜にかける愛情を感じることができました。また、大事に育てた作物でも納得いかなければ廃棄し、何度でも挑戦するこだわりを貫かれていました。その姿勢が名店シェフたちからも認められたのではないかと思います。また、その姿勢を支えているのは小林という土地なのだということを考えさせられる講演でした。




ご参加頂いた皆様からは、

「地元生まれ、地元育ちの私は地域の良さが分かってない部分が多い。小林の良さを自分で探さないといけないと思った。自分の事業で、自分の力で登っていかれた梶並さんに頭が下がります。」
「生き方に共鳴し、感動し、農業についても凄く学ぶことの多い時間をありがとうございました。」
「野菜作りにかける思い、野菜に対する愛情が伝わる温かい講演でした。梶並さん輝いてますね。」
「達人の話に感動しました。」


といったご感想をいただきました!


参加していただいた皆様、そして講師の梶並さん、本当にありがとうございました!

  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 18:02Comments(0)イベント報告

2017年11月21日

参加者募集!『油津商店街の今昔を知る仕掛け人 油津応援団社長 黒田泰裕氏が語る 地域の活性化の秘訣とは。』



――ヒムカレッジ vol.4――――――――――――――


油津商店街の今昔を知る仕掛け人

油津応援団社長 黒田泰裕氏が語る

地域の活性化の秘訣とは。


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『油津商店街の今昔を知る男が語る、油津商店街 再生の道』

油津商店街の再生には、テナントミックスサポートマネージャーの木藤亮太氏の名前を思い浮かべる人が多いかもしれないが、実は油津商店街が栄えていた様を、廃れていく様を、そして再生していく様をずっと見続けていた男がいる。
その人は、株式会社油津応援団 代表取締役社長 黒田泰裕さん。

黒田さんは日南商工会議所時代から、飫肥城下町の観光マップ『食べあるき・町あるき』や「かつお炙り重」の開発等地域の活性化に携わっていたが、全国のシャッター商店街と同様に油津商店街が廃れていく様を見るたびに、このままではいけないと焦燥感に駆られていた。

2013年 﨑田恭平氏が日南市長に変わってから、油津商店街は再生に向けて大きく舵を切ることになった。﨑田市長、テナントミックスサポートマネージャーの木藤氏、マーケティング専門官の田鹿氏、九州パンケーキの村岡氏という若い世代をサポートし、地元の人脈をつないだり、動きやすい環境を整えたりして、油津応援団の金庫番としても商店街の再生に奔走してきた黒田さん。

「『覚悟』という言葉が好きなんですよ。」と語る黒田さんが、油津商店街の再生に、果たしてどんな覚悟をもって臨んだのか、今回のヒムカレッジから地域の活性化のヒントを是非みつけてください。


先着順となっておりますので、どうぞお早めにお申し込みください。
たくさんの方のご参加お待ちしております!


お申込は下記入力フォームよりお申し込みください。
(定員に達し次第、募集を終了します。)
https://goo.gl/forms/8Q8EXk5wV6bbALVW2


■タイムスケジュール
18:00  受付開始
18:30  主催者挨拶
     講座
     振り返り・質疑応答
21:00  終了

□イベント概要
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●日 時:1月23日(火)18:30-21:00
     ※18:00 より開場・受付開始

●会 場:みやざきNPO・協働支援センター
     http://www.m-kiten.jp/access-map.php

●定 員:30名(先着順/参加無料)

●対象者:どなたでもご参加いただけます。

●申込み締切:1月22日(月)


□参加申し込み
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 ※お申込情報を正確に管理する為、お手数ですが下記入力フォームよりお申込下さい。
 参加者の方には事務局より申込確認のメッセージをお送りいたします。

 お申込は下記入力フォームよりお申し込みください。
 定員に達し次第、募集を終了します。
 https://goo.gl/forms/8Q8EXk5wV6bbALVW2

□講師紹介
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黒田 泰裕 氏  株式会社 油津応援団 代表取締役 

1953年日南市出身。株式会社油津応援団代表取締役。日南市中心部の油津商店街を再生に導いた立役者の一人。1978年大学卒業後、日南商工会議所に入所。2012年同所事務局長を経て、2014年に油津の中心市街活性化事業のため、木藤亮太サポートマネージャーと村岡浩司氏3人で(株)油津応援団を組織。2016年に同社代表取締役に就任。中小企業診断士保有。


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【主催・お申込み先】みやざきNPO・協働支援センター
(担当:壹岐、山崎)
〒880-0811 
宮崎市錦町1-10 宮崎グリーンスフィア壱番館3F
メール:info@miyazaki-ksc.org
電話:0985-74-7075 ファックス:0985-74-7076
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Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 11:51Comments(0)イベントのご案内(当センター主催)

2017年11月20日

【大いなるしくじりは成長の種!種をまく木育・森育人!集合!! 第3回「木育・森育楽会」】



12月3日(日)にみやざきアートセンターにて、第3回「木育・森育楽会」が開催されます!

今回はテーマの一つに「学校教育における木育・森育の普及拡大」を掲げ、教育現場で教えている方、また学生本人による発表などによる小学校から大学までの事例などをお伝えしつつみんなで課題を討論していきます。

分科会も「体験分科会」と銘打ち、木育・森育の現場で使えるヒントをお持ち帰りいただける内容を考えています。

基調講演の西原氏からは、熱帯雨林の森や動物の保護、そこに暮らす方々の文化を知り守る活動など、世界の森から改めて日本の森を見つめ直す貴重なお話をしていただく予定です。

皆様是非ともご参加下さい♪

詳細につきましては、チラシ又は下記URLをご参照ください。
https://www.mokumori-gakkai.org/%E7%AC%AC3%E5%9B%9E%E6%9C%A8%E8%82%B2-%E6%A3%AE%E8%82%B2%E6%A5%BD%E4%BC%9A-in-%E5%AE%AE%E5%B4%8E/  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 10:42Comments(0)イベントのご案内

2017年11月17日

参加者募集中!地域に変革を起こす リブランディング講座

宮崎市『夢。創造』協議会よりリブランディング講座のご案内です。



「地域に眠る資源を多角的に考える」

地域資源とは何か、どのような地域の可能性があるのか、どのように活用できるのかを考える全10回の講座をご用意しました。

お迎えする講師は全国で活躍されているスペシャリスト。例えば、一粒1000円の「ミガキイチゴ」を生み出した岩佐大輝氏からは、「ゼロからの産業の再創造」を。またNPO法人ETIC.代表理事の宮城治男氏からは「地域を変えるソーシャルビジネス」など、幅広く学んでいきます。


ぜひこの機会を利用して、私たちの身の回りにある魅力ある宮崎の資源を見直してみませんか。
詳細につきましては、下記URLをご参照ください。
https://local-s.jp/?work=%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E8%B3%87%E6%BA%90%E3%83%AA%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E8%AC%9B%E5%BA%A7


参加費:無料
場 所:若草HUTTE
時 間:16:30~18:30

対象者:
・事業主
・企業の商品開発や企画などの担当者
・農業、デザイン会社、NPO法人(防災、地域づくり)に従事している方
・社会起業家を目指している方
定員:30名
(定員になり次第受付終了)


(お問い合わせ)
宮崎市『夢。創造』協議会事務局
□住所:宮崎市橘通西一丁目1番1号
(宮崎市役所 第二庁舎 商業労政課内)
□電話番号:0985-24-0017
□メール:contact@miyazaki-job.jp
□担当:田口  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 12:08Comments(0)イベントのご案内

2017年11月13日

【参加者募集中!徹底的にこだわるモノづくり~誰でも出来る極めてシンプルな考え方にもとづくビジネスモデル~】



いよいよ今週末開催です!!!

世界最高水準の安全テストをクリアし、風力発電100%の最小限の環境負荷で作られる愛媛今治が生んだ世界のタオルブランド、
IKEUCHI ORGANIC株式会社の代表 池内 計司さんをお招きし開催いたします!

・企画力を上げたい方
・ブランディングについてご興味のある方
・モノづくりにご興味のある方
必見の研修会となっております!

まだお席に余裕がありますので、
どうぞお早めにお申し込みください。
皆様のご参加、お待ちしております♪

http://miyazaki-ksc.org/npo29_02.html  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 14:36Comments(0)イベントのご案内(当センター主催)

2017年11月11日

ヒムカレッジ2017 vol.2 『千年 生きる村を。~ 西都市 銀鏡の挑戦 ~』を 開催しました!

9月12日(火)に、農業生産法人株式会社かぐらの里 濵砂修司さんをお招きし、今年度第二弾となるヒムカレッジ2017 vol.2 『千年 生きる村を。~西都市銀鏡の挑戦~』を開催いたしました!



□講師紹介
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濵砂 修司 氏(農業生産法人 株式会社かぐらの里 代表取締役社長)

宮崎県西都市の銀鏡生まれ。3人兄弟の長男。小学校3年から剣道一筋で、学生時代は1日も欠かさず竹刀の素振りをするほどの負けず嫌いの性格。卒業後、JA入社。山間部を1軒1軒回り、地域に根付いた仕事を行った。10年後、「集落存続のためには働く場所は絶対である」との決意で、父の事業を継ぐことを決める。過疎化に揺れながらも、豊かな自然、歴史、文化をもつ「銀鏡」という村を残すための会社を目指している。今後は、村の中で生きるための衣・食・住の総合的な会社にし、これからの千年を生きる村づくりの夢をもっている。
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当日は大学生から、地域づくり活動ベテランの方まで、幅広い年代の方にご参加いただきました。これからの時代に愛する地域を残すにはどんな戦略が必要か?濵砂さんのこれまでの取組み、これからの展望を熱く語っていただきました!



〇親子二代で作りあげた「千年生きる村を」というフレーズ
濵砂さんが現社長を務められるかぐらの里の始まりは、お父さんの代から。昭和30年代に東米良の林業が衰退し始め、「このままでは銀鏡がなくなってしまうのではないか」という危機感をもった濵砂さんのお父さんは、柚子の栽培を始め、加工商品の開発、山村留学の受入など、村を残すための様々な取り組みをされました。しかし、地域の為の活動は家計を圧迫し、気づけば1億の借金。濵砂さんはお父さんに反発しながらも、志を受け継ぎ、「かぐらの里」を地域を支える企業に成長させていきました。



銀鏡活性化のポイント
「経済(柚子)」「学校(山村留学)」「文化(神楽)」

●銀鏡と経済(柚子)



・柚子生産の始まり
林業の衰退と同時に、昭和46年に銀鏡で柚子の生産がスタートしました。濵砂さんのお父さんが残された手記には、栽培を始めたばかりの頃の苦労がつづられていました。農業は殆ど初心者だったお父さんは、指導者からの厳しいアドバイスを受けながら地域の先駆けとして柚子を栽培し、更には不良果実を商品にする為の加工会社を設立。借金を負いながらも地域の為の活動を続けられました。

・世代交代へ
当時農協に勤めていた濵砂さんは、20代半ばで負債が増えた実家を継ぐという一大決心をします。年中無休で働いても楽にならない暮らしに嫌気がさしたことも多かったそうです。そんな中でもお父さんから受けた影響は大きく、「商売というのを全く知らなかったので、まず最初に東京に行ったんです。父親はその前に東京とか行ってましたから、あの年齢で東京に行くんですからたいした父親ですね。東京日本橋高島屋さんに、ゆずの木を丸ごともっていくんです。ありえない、地下足袋ですね。作業着でそこでゆずを搾って見せる。もう人だかりです。父親のすがたを見て、あのエネルギーにはまいりました。」と振り返られていました。

・将来の仕事
苦しい生活が続く中、濵砂さんが衝撃を受ける出来頃が起こりました。
「とにかく金、金、金、金さえあれば世の中どうにかなるんだと思っていたから、27~29位の頃、この時に徐々に借金が返せるようになっていくんですけど、報われないんです。いやでいやでたまらんわけです。そういう考え方自体が。そういう時に、こんなことがありました。ある友人を遊びに誘うのですが、土日は一緒に遊ばないんです。用事があるからと、そういうのが頻繁にあったんですね。つき合い悪いな~と思ったんです。で、分かったんです。その友人の兄弟が障害者で、小さいころからずっと病院に入院していて、この兄弟のために自分の遊ぶ時間をつぶしていたんですよ。それを聞いたときに物凄くショックで、ショックと同時に自分が恥ずかしい。もう一つ、ようやく探し求めていたものが見つかったと感じた。ずっと探してたんですよ、将来の仕事を。家の仕事は自分の仕事とは思っていなかったので。そんなときに見つけたのがボランティア。「ために働く」ということを見つけたんです。29歳のときから絶対これを生涯まっとうすると決めて未だに一度もぶれたことはありません。この村がつぶれるかもしれない。仕事が無くなる。神楽の後継者がいなくなる学校が無くなるかもしれない。もしかしたらプラスに転じて村のためになるような会社を作ったら、これほど凄いボランティアはないじゃないか、と思ったのが29歳のとき。それからずっとそのことだけを目指して走ってきました。」



・「かぐらの里」の成長
かぐらの里のロゴはしめ縄と柚子、神に誓ってまじめなものをつくるという誓いのロゴです。
社員は現在、37名(パート含む)。最終目標は100名。「100名いれば村がなくならない自信がある」という濵砂さん。社員の中には家族で移住してきた方、Uターン、Iターンの方もいます。何よりうれしいのは、地域で結婚する人たちが現れ、地元出身の子どもが生まれていること。銀鏡出身の赤ちゃんは、濵砂さんのお子さん以来で、「自分のやってきたことは間違っていなかった」と思えたそうです。


・商品を世界へ
かぐらの里では20年以上前から商品を世界へ輸出しています。1998年のアメリカへの輸出から始まったそうですが、これには面白いきっかけがありました。「想像もしていなかったのですが、アメリカから電話がかかってきました。東京の物産展に出品していて、アメリカ在住神奈川出身の日本人の方が帰国されていて、たまたま神奈川に帰ってきたときにたまたま商品を手にとって面白いねと買っていただいた。アメリカから電話がかかってきて、信用も出来ないし、送り方もわからない。最終的にはこの方の実家のほうにお邪魔して保証人の印鑑までもらいに行きました。」
現在はアメリカを始め、台湾、シンガポール、オーストラリア、ブラジルなどに輸出しています。輸出の売り上げは全体の15%ほど。海外事業は売り上げよりも、若い人に向けたPRとしての意味が大きいそうです。



●銀鏡と学校(山村留学)

・山村留学受け入れ開始
銀鏡には学校は1校だけ。5年ほど前に銀上小、銀鏡中を統合し、小中一貫校になった銀鏡学園だけです。山村留学が始まったのは、平成6年。宮崎県第一号の長期留学制度として始まりました。小学生の留学生を預かるのは別の場所でもよくあるのですが、中学生を長期1年間受け入れるところは今でもなかなかないようで、全国的にも珍しいようです。
当時から15名から20名の留学生を毎年受け入れています。中学生に関しては、銀鏡の学校を卒業する時に、高校受験に落ちた子は一人もいないそうです。
山村留学制度を始めたのも濵砂さんのお父さんでした。留学生の受入も簡単なことではなかったそうです。「当時、家の中は大反対です。自分の子どもが三人もいるわけですから。比較してはいけないから自分の子を甘えさせることもできない、平等に扱わんといかん。そのジレンマの中で子どもを十何年間育てました。自分の子どもがおかしくなった時期もありました。それでも、そのことは色んな形で経験になって、子どもの為にも大人になってからプラスになったのかなという気はしています。それまでは本当につらい思いをさせてきました。時には親父を殴ってケンカしました。今こうしてお話していますが、うちの父親は私よりもはるかはるか山のような存在でした。山村留学制度を取りいれたことが銀鏡の今に繋がっている訳ですけども。」





・これからの山村留学制度
濵砂さんは、10年後も子ども達が山や川で遊ぶことができるような、山村留学制度の維持を今から考えられています。今年、かぐらの里の社員で竹を切ってきて、延岡のプロの方に教わっていかだ作りをし、子どもたちに体験してもらいました。子どもがこれ以上ないほど喜び、来ていた親も喜んでくれたそうです。ほとんどが留学生です。「あと10年したら、私は子どもをつれて山や川に行くことが出来ません。山川に遊びに行けなかったら何の為に留学してきたのか分からないですよね。それを何とかカバーできる仕組みを作らなければということで山学校しろかみという組織を立ち上げ寸前です。年が明けたら正式に設立になります。」学校が合併したことにより廃校になった小学校も何かに利用できないかとアイデアを出し合っているところだそうです。



●銀鏡と文化(神楽)



・神楽の継承とこれから
銀鏡神楽は、昭和52年に宮崎県第1号の重要無形文化財に指定されました。銀鏡神楽は神様に奉仕するものであって、一年間の豊穣であったり願をこめてお礼として奉納いたします、という考え方。たくさんの人に見てもらうことを重視するのではなく、住民が神様に奉仕するという形が今でも守られています。どこまで開放して神楽を観光に繋げたらいいかというのは非常に悩むところだそうです。
2015年のミラノ万博では、初めて祭り以外で神楽が披露されました。反対する長老方との内部での葛藤など、障害もあったそうですが、万博では素晴らしいという評価をいただき、行った甲斐があったと感じたそうです。今後は神楽を通しての村おこしも、若い世代の方々と考えていかれたいとのことでした。



・残したい景観
銀鏡ののどかな景観を残したいと語る濵砂さん。「衣食住すべてそろって一つの村として生き残らなければ。こういう風景を頭に描きながら今後何を考えているかというと、子どもの体験活動。注連縄やお初穂を農家さんの提供だったのを体験で作ったり出来ないか。または、社員の特典。社員の人が自分で作ったお米を自分で食べられたら、こんなにうれしいことは無いと思うんですよ。農薬を使わない最高級のお米。それを特典にすることが出来れば。景観を守ることも視野に入れてこれからは活動しようと思っています。」
また、現在は別団体のiさいとと協力し、滝行の体験も民泊とリンクさせながらやっているそうです。


これからの銀鏡
濵砂さんがこれから、柚子の事業と並行して力を入れていきたいと考えているのは、教育ビジネス。「田舎には価値のある教育があるということを知って頂きたい。我々銀鏡だけではなく、宮崎県中にあると思うんです。日本中にあります。極端にいうと日本中の田舎が人を育てる地域であったり村だったりという考え方ですべてが繋がるような組織が出来上がったら日本人はもっともっと立派に成長できるのではないかと思います。見本になるようなことが出来ればなと。」という言葉で講演を締められました。




質疑応答

Q:神楽での村おこしを、今の段階では具体的にどう考えていらっしゃいますか?
A:若い人で古風な考え方を嫌がる人はそんなにいないんですよ、不思議と。いやじゃないからうちの村に来てるんだろうとも思いますが。昨年銀鏡の歴史で初めて、氏子で無い人が氏子になって神楽の踊り手になった例が出来ました。いいきっかけになったんですが、昨年東京から、7名の女性が来ました。何をしに来たかというと、神楽を教えてくれと。そこで年配の方とけっこうトラブったんですが、いいじゃないですか教えるだけはと。そしたらその女性方がものすごくファンになってしまって、その後2回来ました。最近電話があって、今年は一週間ぐらいいるのかな。我々はよそに向けて神楽をしないのが誇りですが、練習は一年を通してするんですよ。練習の風景を見ていただくのは可能性があるねと今踏んでいます。若者にとって練習の風景でも見に来てもらうとうれしいわけですよ、男ですから(笑)
それに若干レクチャーする時間も作りましょうかと。時間を書ければできるんじゃないかと考えています。それと廃校の問題を一つの人の教育としてつなげられればと思っています。


Q:西米良から来ました。地域のまとまり、巻き込むコツがあれば詳しく教えてください。
A:コツを考えたことは無くて、先輩たちの言うことを100パーセント聞いて忠実にやってきました。真摯に受け止めて、先輩をないがしろにすることは絶対にしません。彼だったら、古老の言うことも理解しながらやってくれると、喧嘩にならないように勤めてきたから今があるのかなと。具体的なコツではありませんが、これしかないのかなと思っています。

Q:人が来る銀鏡の魅力、今後の発信の仕方を教えてください。
A:発信の仕方は、自分のやり方と、若い世代が増えていますのでなるだけ彼らにも発信の仕方をゆだねています。私はパソコンが苦手なので、彼らの能力を生かそうと預けると、結構勝手にやり始める。インスタだったりも勝手に始めたり。ではそこと、自分のアナログの発信の仕方は上手くリンクできないのかという話をするんですよ。あと私の場合はいろんなところに首を突っ込んでいるのはある意味戦略です。最終的に経済活動が出来ないと難しいので、神楽や学校を経由して経済活動に繋がるというふうな形を考えている。お金にならないことと、お金になる食品会社が繋がってどうやって事業展開をしていくのかという。これが上手く繋がっていくと、それこそ千年というレベルの事業体になるのかなと今思いながら。発信が大事だというのは事実分かっているので、昔は発信が苦手だったがマスコミ等にも声をかけるようにしています。

Q:濱砂さんのあきらめない気持ちや周りを巻き込む熱意を凄いと思ったという感想が多かったのですが、頑張れたきっかけや熱意を持てた理由を教えてください。
A:もともと中学2年のときに青年実業家になるという夢をもっていました。父の姿をみてかっこいいと思ったんですよね。社会人になってもその思いがずっとあったんです。へこたれない、負けないというのは部活動(剣道)をやっていた積み重ねだと思います。小学校三年から中学3年までうさぎ跳びなどのトレーニングを盆も正月もずっとやっていました。結果も残しました。頑張ったら身になると。高校のときに入院して挫折し、人に救ってもらった経験。どろどろの借金地獄のときにもう一つ地獄をみて、交通事故で人を殺しかけたんですよ。その人の償いに二年ぐらいかかった。最後に被害者のお父さんが、「あなたなら一億円の借金は返せる。がんばってね。もういいからね。」といっていただいたんですよ。そういうこまごましたことですけど辛い目にあって頑張って成功してほめてもらう、落ちてあがってを繰り返すうちに強くなってしまいました。



ご参加頂いた皆様からは、

「濵砂さんの真摯さに魅かれました。お人柄の力、大きいと思います。地元にあるものをいかに売っていくか?お金に変えるか?を軸に世代や地域を繋ぎ、まき込み熱をもたせていく姿、ぜひモデルにさせていただきます」

「‘村を支えることを考える’、とても難しく大変なことを親子2代通して続けることに感動しました。山村留学は厳しくもあるかと思われますが、子どもにとっても親にとってもすばらしい体験になると思う。」

「やはりストーリーがあるのは素敵だなと思いました。銀鏡やかぐらの里に対する見方が変わりました。」


といったご感想をいただきました!


伝統を大切にしている、けれども新しいものもその中に入れていくというような、芯がありながらも柔軟であるというのが銀鏡を支えているんだなと思います。千年先というと、人世代30年とすると、30世代先。全く分かりません。けれどもそこをイメージしてそのために何が出来るかと考えることが集落を生き残らせるのではないかと感じる講演でした。


参加していただいた皆様、そして講師の濵砂さん、本当にありがとうございました!

  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 10:03Comments(0)イベント報告