2018年06月26日

【地域づくりと宮崎101人】①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)

始めまして!みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局
としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

そんな中宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、
これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!

①髙木 兼寛(たかぎ かねひろ)1849年~1920年
●国民病の脚気を治す
 幼名は藤四郎、薩摩藩士の子として穆佐郷(むかさごう)白土坂(現宮崎市高岡町)に生まれた。7歳で中村敬助の塾に入り、やがて村人から敬愛されていた医師黒木了輔(りょうすけ)にあこがれ、医者としての道を歩くことを決意。17歳の時に志望を果たし、鹿児島の医学校に進み、石神良策と英医ウィリスに師事。これが生涯英国の医学を学び、海軍に身をおく運命的な出会いとなった。

 上京した兼寛は、海軍軍医学校の英医アンダーソンに学び、彼の推挙によりセント・トーマス医学校へ留学。5年間修学の成績は抜群、明治13年に帰国した。当時脚気(かっけ)は国民病とも言われ、海軍の約3割の兵員がこの症状。帰国手始めの研究は“脚気撲滅”であった。

 その原因が栄養のアンバランスにあると確信した兼寛は、兵食の改善を提起した。しかし、森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、容易でなかった。兼寛は参議伊藤博文の助言を得て、明治天皇に謁見(えっけん)、英断を仰いだ。やがてこれが効を奏し、栄養実験船「筑波」が出港、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。

 “病気を診ずして病人を診よ”の信念に従い、今日の東京慈恵会医科大学を創設。さらに各界の協力を得て、わが国最初の看護学校を設立した。その足跡は世界的である。(山口 保明)

◎「ビョウシャ1ニンモナシ」
 1883(明治16)年、軍艦「龍驤(りゅうじょう)」は376人を乗せ、ニュージランド、南米、ハワイを経て航海。うち169人の重症脚気患者を出し、25人が死亡、航行もままならない状況に陥った。
 その翌年、軍艦「筑波」が兼寛の“改善食”を積み、品川沖から出港。龍驤と同じ航路をたどる実験を試みた。400人に近い乗組員。結果を待つ兼寛は、不安と期待が交錯して眠れない日々。…ついに来た!「病者1人もなし安心あれ」の電文。脚気患者は1人も出ず、兼寛の栄養説が証明された。それは同時に、旧日本陸軍食の欠陥を立証する結果にもなった。
 後日譚(たん)であるが、某軍医が兼寛に「筑波で脚気患者が出たらどうした?」と。兼寛は「切腹してお詫びするつもりだった」と。まさしく命を救うための、命をかけた決断だった。


転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/001/001.html

↓>大岐ちゃんメモ
髙木兼寛氏の功績をたたえ、出身地高岡の道の駅は「高岡ビタミン館」という名がつけられています。宮崎県総合文化公園に銅像も建てられ、宮崎を代表する人物ですが、なんと、北極のバリソン半島の西端の岬にも「高木岬(英:Takaki Promontory)」という名がつけられ、これも髙木兼寛の功績を称えたものだそうです。
ちなみに私は「高岡ビタミン館」はビタミン豊富な野菜や食べ物が多いからその名前なんだろうなと勝手に思っておりました・・・高岡の皆さんすいません・・・ガーン
また高木兼寛氏が創設した東京慈恵会医科大学は今年で創立137周年を迎えこれまで数多くの医師、看護師を輩出しています。

髙木兼寛ゆかりの地として
穆園広場(高岡長小山田)
天ヶ城歴史民俗資料館(宮崎県宮崎市高岡町内山3003-56)
等あります。



  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 12:01Comments(0)スタッフブログ宮崎の偉人