2018年06月27日

【地域づくりと宮崎101人】②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)

こんにちは!みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局
としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、
これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!2人目はこの方!


②小村 寿太郎(こむら じゅたろう)1855~1911
●偉大な業績の外交官
 現在の日南市飫肥に生まれた。7歳の時藩校振徳堂に入り勉学にはげみ、15歳でないと入寮できない振徳堂東寮入寮を14歳の時認められた。

 秀才の寿太郎は15歳の時、藩の留学生として学友5人とともに長崎へ遊学し英語を学んだ。さらに、彼1人だけが東京大学の前身大学南校に進んだ。同校でも優秀で、1875(明治8)年、21歳のとき文部省第1回留学生の11人に選ばれ、米国・ハーバード大学で法律を学び優秀な成績で卒業した。

 帰国後、大阪裁判所判事、外務省翻訳局長などを経て駐米・駐露特命全権公使、47歳で外務大臣となり、1902(同35)年に日英同盟を締結した。

 1904(同37)年、日露戦争が起こった。わが国は戦争が長引くと不利になる状況のもと、アメリカの仲介でポーツマス講和会議に臨んだ。ロシア側の譲歩しない強い態度で交渉は大いに難航したが、寿太郎のすぐれた英知で終結をみた。

 その後、再び外務大臣となり、各国との条約改正をすすめ、不平等な関税自主権も回復させた。1911(同44)年、外務大臣を辞任し、神奈川県葉山で永眠、57歳だった。

 子供のころから秀才であったが、特に記憶力は並外れていたという。
 外務大臣としての議会での外交演説も、1度原稿に目を通すと、演壇では原稿なしで1字1句間違えず演説し、また、日英同盟協約もその成立の時には、英文和文ともに全文をそらんじていたといい、寿太郎の記憶力が尋常ではなかったことを証明する逸話である。(前田 博仁)

◎大統額がみた寿太郎とウィッテ
 ポーツマス講和会議には米国大統領ルーズベルトの仲介で、日本は寿太郎が、ロシアはウィッテが臨んだ。

 講和成立後、ルーズベルトはジョルジ・トレベルヤンへの書簡で「日本人は常に余に真実を語り、極めて秘密性を有し、およそ彼らが言明したことは必ず実行した。とくに彼らは互いに信頼し、共同して行動する。しかるに、ロシア人は互いに信頼せず、けん制し、虚言を弄し、極めて不健全かつ普遍的な腐敗と利己とを示した」と日本人とロシア人を評している。

 小村の飾らない誠実さを大統領は信用したのである。
 さらにウィッテについて述べている。「予は彼を好まない。何故ならば彼の大言自負はただに愚を示すのみならず、これを日本人の紳士的な自重・自制に比すれは驚くほど粗野であるからである。かつ、予は彼を高尚な思想の欠けたる甚だしきわがまま者とみた。」

転載:みやざきの101人
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/002/002.html

大岐ちゃんメモ↓↓
小村寿太郎に関する好きな話がこちら

「伝説の1分間スピーチ」
1906(明治39)年ポーツマス平和条約を締結し、大役を果たした寿太郎は、帰国後県立宮崎中(現・宮崎大宮高校)で講演を行います。その時、寿太郎の講演はたった1分。

「諸君は正直であれ。正直と言うことは何より大切である。」

諭すようにこれだけを話すと、寿太郎は演壇を降ります。大国との会議の様子など、雄弁な語りを期待した生徒たちに対して、この短いスピーチは強い印象を残しました。
「宮崎県郷土先覚者」より
https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/index.html
正直に生きて参ります!・・・泣きこれからは正直に生きていきます・・ニコニコ

小村寿太郎ゆかりの地として
国際交流センター 小村記念館 (宮崎県日南市飫肥4丁目2-20-1)
振徳堂 (日南市飫肥10丁目2番1)
宮崎県総合文化公園に銅像
等あります。観光がてらのぞいてみてはいかがでしょうか・・・ニコニコ


  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 12:01Comments(0)スタッフブログ宮崎の偉人