2018年07月02日

【地域づくりと宮崎101人】⑤石井 十次(いしい じゅうじ)

こんにちは!みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局
としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、
これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!

⑤石井 十次(いしい じゅうじ)1865~1914

●生涯かけて孤児救済
 日本の近代化の中で、富国強兵を国是としていた時代、キリスト教の博愛主義を貫き「孤児救済」に生涯をかける“直情径行の快男児”(徳富蘇峰の弔辞)が現れた。当時は福祉を基底においた社会政策もなく、自ら開拓するよりほかにない信念の選択であった。この難事業に挑んだ男、それが石井十次である。

 十次は上江村馬場原(現高鍋町)に藩士の子として生まれ、幼少時は郷里の塾に学び、15歳で文字通り学に志し上京したが、脚気(かっけ)にかかり帰郷。16歳で結婚、上江小学校教員、宮崎警察署書記を務めるなどしたが、病を得て宮崎病院院長荻原百々平(どどへい)の治療をうけた。百々平は彼にキリスト教を説き、医者への道を勧めた。

 1882(明治15)年、十次は岡山県甲種医学校に入学、ここで新島襄(じょう)の活動を知り感激した。やがて英国のブリストル孤児院のジョージ・ミューラーの生き方に心をよせ、自分の生き方の指針を定めた。
 医学校卒業後、診療所での実習を続けたが、この時近くの大師堂で巡礼の子・前原定一を引き取った。救済の第1番目である。

 間もなく孤児教育会を設け、決断の時を迎えた。“人は2人の主に仕うること能(あた)わず”(「マタイ伝」)と、決然として医学書を焼き捨てた。以降、濃尾(のうび)震災の93人、東北大飢饉(ききん)の823人、岡山孤児院は在院者を含めると1,200人にも達した。

 十次は子供の将来を考え、教育と労働を両軸に実践、“働く喜び”を教えた。1910(同43)年、先発者に加えて西都市・茶臼原(ちゃうすばる)への移転を開始、「鍬鎌主義」の理想実現に燃えた。十次の一生は、孤児にささげた慈愛の一生だった。(山口 保明)

◎蘇峰と十次
 言論界を常にリードしていた徳富蘇峰(そほう)は、「尊兄の至誠に感じたしるし」として、未見の友十次に金一封を寄付した。感激の初対面は、1899(明治32)年5月の第1回東京慈善音楽会。院児音楽隊の演奏に続き、十次は幻灯によって岡山孤児院の経過や実情を説明、集会者に多大の感銘を与えた。

 蘇峰はやおら登壇、「この10年社会に代わり、孤児の友として苦心経営、今日に至った石井十次君の労を謝するため、一同起立して、もって感謝の意を表したい」と提案。満場千余人があらしのような拍手でたたえた。十次の生涯忘れ得ない出来事だった。

 蘇峰は「国民新聞」に十次を悼み長文の弔辞を掲げた。それから8年を経て、茶臼原の十次の墓にもうでた。「煙霞勝遊記」に「無限の慈悲と、善根と、無量の勇気と、信仰のありき」と記し、誇るべき十次の歩みだと追懐している。

〇大岐ちゃんメモ
「児童福祉の父」と呼ばれ、「岡山4聖人」の一人。岡山で医師を目指していましたが、孤児救済に生涯を捧げました。石井十次がいなければ救われなかった子供も多かったと思います。
石井十次ゆかりの地
宮崎県総合文化公園に銅像
石井十次資料館(宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)
石井記念友愛社( 〒884-0102 宮崎県児湯郡木城町大字椎木644-1)

  

Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 14:15Comments(0)宮崎の偉人