2018年07月05日

【地域づくりと宮崎101人】⑥小倉 処平(おぐら しょへい)

こんにちは!
みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!

当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。

その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!
⑥小倉 処平(おぐら しょへい)1846~1877

●「貢進生制度」を実現
 飫肥(現日南市)の生まれ、中級藩士長倉喜太郎の2男。18歳のとき同藩士小倉九十九(つづら)の養子となった。1864(元治元)年に藩命で京都に行って藩の外交に当たり、後、藩校振徳堂の句読師(くとうし)(読み書きを教える人)・寮舎長にも選ばれた。処平の指導理念は世界雄飛を目指す進歩的なもので、生徒から尊敬を集めていた。間もなく江戸に出て、安井息軒の門人となり、陸奥宗光・谷干城(たてき)らと交流があった。

 明治に入ると、公費による長崎朗田学制度を藩主に進言し、1869(明治2)年には小村寿太郎、伊東益夫、田原億蔵を、自ら引率して長崎に留学させた。当時、大学南校(東京大学の前身)は、雄藩出身者で占められていたので、小藩からも学生を出す「貢進生制度」を同志とともに進め、実現させた。小村寿太郎も入学できて、後に大成する契機を得た。処平はこのころ文部権大丞(もんぶごんだいじょう)の職についていた。

 1871(明治4)年に海外留学を命ぜられ、英国、フランスで政治や経済を学んだが、国内で征韓論決裂のことを知り急いで帰国、西郷隆盛・板垣退助らが下野すると、彼もまた飫肥に帰郷した。1874(同7)年佐賀の乱が勃発し、敗れた首領江藤新平らがひそかに処平を頼って飫肥に潜入してきたのを、外ノ浦港から土佐へ逃亡させた。そのために彼は禁錮刑に服し、後、大蔵省七等出仕となった。

 西南戦争が起こると、「日向の人心を鎮ぶしてくる」と唱えて帰郷したが、すでに飫肥士族300名が前線にあることに義を感じ、薩軍奇兵隊総監として転戦、和田越(現延岡市)の戦いで負傷し従容として自刃した。『英国租税年表』などの訳述を残している。(藤井 美智雄)

◎家族愛と教育一家
 処平は孝養心の深い人物であったことが、留学先の英国から家族宛の手紙に表されている。「英国竜動府自一筆啓上仕候」に始まる文面には、両親兄弟への安否伺いから、「養生第一にして何卒ご無理なきように」と美文で綴られている。遠く異郷の地にある身を案じてくれる家族へ、無事を伝え、愛情にあふれた心遣いで満たされている。

 処平白身が藩費留学の促進や小村寿太郎育ての恩師であるなど教育への熱意はもちろんであるが、兄の長倉外字も安政年間に振徳堂の助教を務め、県官を歴任。西南戦争では飫肥隊編成の先駆けとして活濯し、戦後では3年の刑期を送った後、農商務省の御用掛に出仕している。弟の長倉雄平はまれにみる努力家で、文部省督学局に勤務の後、学校教師に転じて、新潟、山梨など各県の師範学校長を経て、1906(明治39)年退職後は帰郷して後進の指導に務めた。兄弟共に教育者であった。
出典:https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/hito/006/006.html

〇大岐ちゃんメモ
「飫肥西郷」と呼ばれ皆から親しまれた小倉処平。早くから小村寿太郎の才能に目を付けていた小倉処平は小村を早い時期から留学させ、小村は外交官として名を残すわけですが、小村がハーバード大学に留学している時に西南戦争で自刃。小村は帰国後すぐに小倉の墓へ向かい号泣したそうです。
小倉処平ゆかりの地として
振徳堂(〒889-2535 宮崎県日南市飫肥10丁目2−1)
加療の地( 〒889-0102 宮崎県延岡市北川町長井3942)
があります。
  


Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 11:00Comments(0)宮崎の偉人