2018年08月16日
【地域づくりと宮崎101人】⑫関月尼(かんげつに)
こんにちは!
みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!
当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。
その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!
●恋に生き諸芸伝える
ふみだにもあやうかせばをもひのみ
深谷川のくち丸木ばし
関月尼の歌である。手紙をもってしても確信がもてないので、私はもの思いにふけるのみ、それはちょうど朽ちた丸木橋のようなものと詠んだのであろう。恋多き尼僧の心の内を吐き出した1首。
尼僧の本名は小山せき。延岡市千光寺の過去帳には小山関子とある。出生は大坂、天保の飢饉(ききん)の際ほう起した大塩平八郎の娘と伝えられる。
母は遠島、生活も苦しく、せきは若くして出家したというが、真相は謎(なぞ)につつまれている。たまたま京都の寺で修行中の僧・恵等(えとう)と相知り、2人は情熱断ち難い関係に陥った。
こうなると“恋の道ゆき”、2人は長崎を経て延岡へ。恵等40歳に近く、関月20歳をすぎた年齢であった。はじめ別々に暮らしたが、島野浦神聚寺(じんじゅじ)に入り同せい、土地の人々に愛された。尼僧は“おせきさん”と呼ばれ、生花・茶道・三味線・琴などを教えた。
ところが、恵等が島の娘“お房”と仲良くなり、関月尼は島を離れ延岡の東海(とうみ)の常楽院に入った。運命の皮肉であろうか、ここで船問屋の伝五郎と再婚。この暮らしも5、6年しか続かず、やがて延岡誓敬寺の食客となった。柴田家の3畳間を借り、和歌、鼓など諸芸を教えた。この間、2度ほど上京、歌道の師太田垣蓬月(おおたがきれんげつ)に会いに行ったという。
やがて延岡の祝子(ほうり)の千光幸恵照の妻となり、ここで63歳の波乱にみちた生涯を閉じた。(山口 保明)
◎西南の役と関月尼
1877(明治10)年、西南の役が起こり、多くの青年が戦いに散った。10代から20歳代の未亡人ができ、のっぴきならぬ社会問題となった。鹿児島県は未亡人の再教育のために、関月尼に自羽の矢をたてた。
これに応えた関月尼は、翌年の春、束髪を落とし黒染めの衣に身を包み、馬上の人となった。当時19歳の甲斐もん、17歳の柴田きく、白石ときの3人は延岡の伊形(いがた)の松並木に師を待ちうけ、しばしの別れを惜しんだという。
鹿児島で技芸教育を施すこと2年、千光寺に戻った関月尼は疲れが出たのか、臥しがちであった。それでも経典などを書写し、曹洞宗台雲寺(だいうんじ)末40カ寺に献納、気分のよい日は教え子たちと談笑した。
関月尼の歩みが残した民衆への啓蒙(けいもう)活動は、語り草となって伝わっている。
きのふありて今日はなき身と
消えゆくも 残るも同じ道芝の露
大岐ちゃんメモ
関月尼の墓→延岡市千光寺にあります。
みやざきNPO・協働支援センターの大岐です!
当センターでは、協働の推進やNPOに関する相談やサポート等の他に、
宮崎県地域づくりネットワーク協議会の事務局としても活動をしており、宮崎県内で地域づくりの様々な活動を行っている団体などのサポートなども行っています。
その中で、宮崎のこれからの「地域づくり」を考えていくためにも、宮崎の歴史を振り返り、宮崎のことをよく知ってもらうことも
大事ではないかと考えました。ということで、これから宮崎の偉人101人をこのブログにてご紹介していこうと思います!
関月尼(かんげつに)1823~1885
●恋に生き諸芸伝える
ふみだにもあやうかせばをもひのみ
深谷川のくち丸木ばし
関月尼の歌である。手紙をもってしても確信がもてないので、私はもの思いにふけるのみ、それはちょうど朽ちた丸木橋のようなものと詠んだのであろう。恋多き尼僧の心の内を吐き出した1首。
尼僧の本名は小山せき。延岡市千光寺の過去帳には小山関子とある。出生は大坂、天保の飢饉(ききん)の際ほう起した大塩平八郎の娘と伝えられる。
母は遠島、生活も苦しく、せきは若くして出家したというが、真相は謎(なぞ)につつまれている。たまたま京都の寺で修行中の僧・恵等(えとう)と相知り、2人は情熱断ち難い関係に陥った。
こうなると“恋の道ゆき”、2人は長崎を経て延岡へ。恵等40歳に近く、関月20歳をすぎた年齢であった。はじめ別々に暮らしたが、島野浦神聚寺(じんじゅじ)に入り同せい、土地の人々に愛された。尼僧は“おせきさん”と呼ばれ、生花・茶道・三味線・琴などを教えた。
ところが、恵等が島の娘“お房”と仲良くなり、関月尼は島を離れ延岡の東海(とうみ)の常楽院に入った。運命の皮肉であろうか、ここで船問屋の伝五郎と再婚。この暮らしも5、6年しか続かず、やがて延岡誓敬寺の食客となった。柴田家の3畳間を借り、和歌、鼓など諸芸を教えた。この間、2度ほど上京、歌道の師太田垣蓬月(おおたがきれんげつ)に会いに行ったという。
やがて延岡の祝子(ほうり)の千光幸恵照の妻となり、ここで63歳の波乱にみちた生涯を閉じた。(山口 保明)
◎西南の役と関月尼
1877(明治10)年、西南の役が起こり、多くの青年が戦いに散った。10代から20歳代の未亡人ができ、のっぴきならぬ社会問題となった。鹿児島県は未亡人の再教育のために、関月尼に自羽の矢をたてた。
これに応えた関月尼は、翌年の春、束髪を落とし黒染めの衣に身を包み、馬上の人となった。当時19歳の甲斐もん、17歳の柴田きく、白石ときの3人は延岡の伊形(いがた)の松並木に師を待ちうけ、しばしの別れを惜しんだという。
鹿児島で技芸教育を施すこと2年、千光寺に戻った関月尼は疲れが出たのか、臥しがちであった。それでも経典などを書写し、曹洞宗台雲寺(だいうんじ)末40カ寺に献納、気分のよい日は教え子たちと談笑した。
関月尼の歩みが残した民衆への啓蒙(けいもう)活動は、語り草となって伝わっている。
きのふありて今日はなき身と
消えゆくも 残るも同じ道芝の露
大岐ちゃんメモ
関月尼の墓→延岡市千光寺にあります。
【地域づくりと101人】~連載終了のお知らせ~
【地域づくりと宮崎101人】⑮阿萬 豊蔵(あまん とよぞう)
【地域づくりと宮崎101人】⑬平部 嶠南(ひらべ きょうなん)
【地域づくりと宮崎101人】⑪三好 退蔵(みよし たいぞう)
【地域づくりと宮崎101人】⑩三島 通庸(みしま みちつね)
【地域づくりと宮崎101人】⑨小林 乾一郎(こばやし けんいちろう)
【地域づくりと宮崎101人】⑮阿萬 豊蔵(あまん とよぞう)
【地域づくりと宮崎101人】⑬平部 嶠南(ひらべ きょうなん)
【地域づくりと宮崎101人】⑪三好 退蔵(みよし たいぞう)
【地域づくりと宮崎101人】⑩三島 通庸(みしま みちつね)
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Posted by みやざきNPO・協働支援センター at 09:59│Comments(0)
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